ポイント・ネモ

 見えてくるのはバス乗り場。ムギちゃんが泣いていたスーパー横を急ぎ、人目がいっさいないはずの場所を目指す。同じようなコンビニ、同じような飲食店、同じようなスーパー、薬局。郊外の風景は既視感にあふれていて、どこにだって人がいる。その感覚から抜けだせる場所なんてないかもしれないが、ひとつだけ、既視感から個別的な場所を取り戻す方法があるとするなら……。


「……着いた」


 そこは思い出という魔法を投影するべきだ。自分の感情が乗った風景は、単なる記号的表象をつき抜け、私の人生に句読点を打つ。たとえば今、目の前に建っている小屋。磔刑の張り紙すら消え失せるほどの虚無。あの夏の終わり、私が通いつめていたのに閉じてしまった花屋。今となってはだれもが寄りつかない、向ヶ丘遊園の不能到達極。言い換えるのならばポイント・ネモといったところ。南太平洋のあらゆる陸地から限りなく離れた一点。バングラディシュの船の墓場と同じように、その海中には役目を終えた人工衛星がその亡骸をうずめることでも有名だ。人はその衛星の降る軌道を、墓場軌道と呼ぶ。マチのポイ捨ては、スペースクラフト・セメタリー、別名ポイント・ネモを想起させるためのものだったわけだ。かのベルヌ作品から引用されたものでも、とくに有名な一例。


 シャッターが降りた表口から裏手に回ると、そこには勝手口としての扉がある。もしここが施錠されていて開かなかった場合は、その時点でゲームオーバー。答え合わせの瞬間。けれど、ビビってなんかいられない。私が選んだのはこの場所だ。ほかにも扉なんて、この街にはいくらでもあるのにもかかわらず。


「いろんなドアが、いつもあるってね」


 ひろい世界が展開されているわけでもないと知りながら、私はノブをゆっくりひねった。電気も通っていないような暗闇。赤い火として、青い実として、私はなにかを灯せるだろうか。押せば開かれていくドアに口角を上げながら、なんと言おうかと悩んでしまう。しばらく会わなかっただけで、この緊張。


「お邪魔します」


 とするなら、いつもあいつが言っていたセリフを返してやればいいのだ。正面玄関から入ってくることもなく、なんどきでも窓から声をかけてきやがって。


「裏口から失礼」


 部屋の中、かろうじて窓の隙間から差しこんだ光で人の顔くらいは判別できる。そこにはふたりの影。床にお尻をつけ怯えている表情の女と、そこに金属質を向けているパーカー。ご丁寧にその先には恵方巻のような筒が取りつけられていて、あれが発砲音を極限まで小さくしてくれる道具だということは、素人にも理解できた。


「いや~先生。ギリギリだね」


 銃口の位置はぶれることなく、ただ顔だけがこっちを向いた。感動の再会とはいかない。むしろ状況は非常に劣悪。引き金にかかった指から、こいつが本当に人を殺そうとしていたのだと認めざるをえなくなる。


「マチ……」


 隣人に放つ。敵対の合図。お前のやろうとしていることを、私は容認しない。止めてみせるという宣戦布告。


「銃を下ろせ」




 マチが銃口をつきつけている相手は、私の顔を見るやよけいに混乱を深めたようだった。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだと、表情だけで語ってみせる。歪んだ眉毛に潤んだ目元。埃っぽい部屋に尻もちをついたせいで、洋服のあちこちが薄汚れてしまっている。四方は過去に花が飾られていた棚で囲まれて、かつ建物の中央付近にも網棚が散乱していた。動線が分かりやすくなるように、勝手口から売り場へ行く障壁はない。ひとり分の幅しかないレジ横が、しいていえば通りにくいが。


「マチ、あんたがミチルさんを狙う理由はなに?」


 自身の名前が出ただけで肩が飛び跳ねている彼女。どうにか笑顔を浮かべてあげるべきなのだろうが、マチの武装と彼女への嫉妬がそれを拒んでしまう。


「トモエちゃんにけしかけてまで、私のトラウマ探りやがって……」


 表面的に怒りを表しておく。コミュニケーションの形態としてはそれが妥当に思えるからだ。本気で怒っているのならわざわざ聞きだす必要もないのだし、マチの弁明を引きだすトリガーとなればいいだけだ。ハラスメント的だが、私とこいつのあいだではそうならない。と思ってはいる。


「お~、さすが。気がついたの」


「どうせあんたが通話でもしながら指示を出してたんでしょう」


 彼女はブルートゥースイヤホンを使っていたし、片耳にそれをつっこんで髪の毛で隠していたのだろう。マチは私がミチルさんに反応する様子を聞いていた。なんなら遠くから眺めていたかもしれない。


「あのハサミを使っている美容師さんをリストアップするの、大変だったよ。なにせぼくは持ち手の形までは覚えてなかったからさ。塾もサボりがちになっちゃって、しょうがなかったよ」


 マチはミチルさんに視線を向ける。相変わらず拳銃は微動だにせず、彼女の身体にいつでも風穴を開けられるぞと脅している。


「彼女をラジコンとする代わりにサナちゃんへの情報提供。まあ、あんたが考えそうなのは、そんなところでしょうね」


 当たらずとも遠からず。にっこりと笑う姿は、本当に憎たらしくてこいつらしい。平常心を保つ技術は相当なものなのか。容赦なく引き金を引きそうな顔をしている。


「そうまでしてミチルさんを殺す理由なんて、あんたにあるわけないでしょう?」


「あるよ。少なくともこいつは、死んでとうぜんの人間でしょ?」


 にやりと不敵。自信たっぷりという様子だ。


「……あんたがいなくなってたあいだ、私は相当苦労したよ。サクラさんに心中をほのめかすようなことまで言って……。回りくどいったらありゃしない」


 心中って……。その言葉に反応したのはミチルさんだ。怯えた目をしながら、自分がなんのために殺されるかの見当もつかないという風。


「なんで私が、それで死ななきゃならないのよ……!」


 ほぼ嗚咽だ。シャッターの防音と外気の拡散によってその音は人々へ届くことはない。というか、受け取りたいと耳を澄ませている人間もいないだろう。


「うるさいよ、もう死ぬんだから黙ってろ」


 剥きだしの牙とドスの効いた恫喝。私には浴びせたことのない、ねじ伏せるような言葉だ。ある程度の知性を持っていながら、言葉をこんな風に使うとは。私の教育が間違っていたか。


「……ぼくがなんでこんなことをするのかって? そんなのいつだって同じような答えでしょ?」


 そうだな。初対面のころからそんなことを言っていた。虚言ではないことも分かっているが、にしたってこんな場で聞くとは思わなんだ。


「楽しそうだから」


 マチの目を睨んで、先回り。


「あんたに快楽殺人鬼のきらいがあるとは知らなかった。武器を持って、自分が強くなったつもりかよ。やっぱりクソガキじゃないか」


「そうやって挑発しても無駄だよ」


 とにかくあいつの拳銃を無力化しなければならない。できるのか、私に。あいつにミチルさんを殺させるわけにはいかない。特段生きていてほしいと思っているわけでもないけれど。いや、そういう感情を抱いている時点で、私の器が小さいということなのだろうな。


「だってさ、この殺人は先生のためなんだ。ぼくだって人を殺すってどんな感じなんだろうって興味はある。目の前でセックスしたことのある男が殴り殺されるのを見た夏から、ずっと気になっていたけどさ」


 マチ自身も引き金に指をかけている状況には、張りつめるようなプレッシャーを覚えているようで、休息とばかりにトリガーから指を外した。といっても曲げていたそれを伸ばしただけで、一秒も経たずに彼女を殺せるところから一秒で殺せるとわずかな変更が加わっただけだ。私の場所から飛びだしたって、マチの拳銃を見事奪うなんてできそうもない。


「……先生はさ、あの男の死を乗り越えられていないじゃん」


 きちんと話をしよう。という意思表示。おそらくはこの対話が決裂したら、万事休すといったところ。


「……そんなこと、あんたに言われる筋合いは……」


「あるよあるに決まってんだろ。どんだけいっしょにいたと思ってんだよ」


 そんな無自覚は許されない。マチは拳銃をこっちに向けかねない剣幕。


「あんたが前を向いてくれるんならぼくはなんだってするよ。忘れられるように、嫌なことを思いださせるやつら全員殺したって構わないんだ」


 まあ、バレているに決まっているか。そりゃ私だって愚か者じゃあるまいし、日々あの人のことを想わない日がないということは、知っている。だって私のことなんだから。


「これはぼくの意志だ。そのために武器も手に入れた、先生が恨んでいる人間もつきとめた。自分の金で、自分の力で」


 なんでこいつは、私にそこまでしてくれるんだろうな。なんて、言っても無駄か。


「止めたかったら対価を出せよ。いつも先生が言ってるとおり、給料が出るならやるってやつさ」


 マチが私の未練を断ち切りたいと思っているのは、マチ自身のためでもあり、私のためでもある。それは欺瞞であるかもしれないし、なによりも手段がふさわしいものではない。けれど、そんな理屈を叩きつけてもこいつは折れない。マチを抑えつけるには、こいつの想像を超えていく必要があるのだ。


「殺人の対価なんてない」


 そう、理屈の上では。天秤の上では。


「でも私には、とっておきの人質がいるんだよ」


 ポケット。輪に指を通して二つの刃を動かせるように。よけいな動きはするなと、マチが銃を向けないことだけが救いだろうか。マチが私に与えていた武器、ルミエールタイプ1311を天に向ける。自分の髪の毛。長く伸びて、視界にいつだって居座る、あの人が切ってくれなかった前髪を鋏むかのように。


「あんたが切りたがっていたこの前髪、私が自分で切るぞ。それが嫌なら銃を下ろせよ」


 さぞや滑稽な姿だが、やっているこっちは大まじめだ。ミチルさんも怯えだけではなく、困惑の色を濃くして私たちを見つめている。本職からすると鏡もない場所でのセルフカットはおすすめしないということだろうか。そりゃそうだろうな私だって本当はこんなことしたくない。


「あははははは! そうきたか! 傑作だよ先生」


 拳銃を持つ手がはじめてぶれた。

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