エアマックス
瞬間スマートフォンにひとつの通知。驚き桃の木山椒の木、マチからだろうか? あいつが私の様子をどこかから監視しているとしか思えないようなタイミング。疑惑よりも確信に近い心が指先を動かして、ロック画面を速攻で解除。
「忙しい人だね」
ショートカットちゃんはぼやく。
「おもしろい人だと思うよ。たぶん」
カナちゃんは愉快。
「……ん?」
その通知、というか申請にまるで身に覚えはなかった。がしかし、表示されている名前はそんなこともない。というか毎日のように顔を合わせているんじゃないだろうか。今日は見なかったけれど、それは予定があるからだったし……。
「もしもし? チカさん? どうしたの?」
なんで私の連絡先知っているの? という疑問はよそへ、とにかく用件を聞こうじゃないか。本来ならこの電話からしてコンプラ違反。そんなもんは知らん。大概破ってここまで来たんだ。
『どーしたもこーしたも! やっぱり先生話聞いてなかったんですか?』
「はい?」
なに怒ってんの? たじろいで靴の隙間から水があふれていくのが分かる。
『私今日、模試終わったあと、お家にうかがうって話しましたよね? 文化祭のお礼をさせてくれって! お菓子も買ってきたのに!』
「ええぇ? そんなこと言ってた?」
目の前の少女は狼狽する二〇代半ばをご覧になって、さぞおもしろがっているご様子。気持ちは分かるが知らないところでやってくれ。サナちゃんに言いつけてやるからな。もう試合も応援してやらないぞ。
『だからLINEのID渡したじゃないですか! マチちゃんのことで頭がいっぱいだったんでしょうけど、私も同じく生徒なんですが!』
「あ、あの謎の紙切れ?」
あのとき赤ペンがお尻のポケットに入っていたのは、紙切れをしまいこんだ余波だったのか。やたらと飛ばされたアイコンタクトだって、うかがう時間がずれますよという合図。なるほど、私もうつろに話を聞いていたものだな……。
『謎でもなんでもないんですが! 明確に私の個人情報です!』
スマートフォンが心配になるくらい声を張り上げているチカさん。怒りの表現がどんどんうまくなっているね、いい演技だね。うん、そういうことにしておこう。
しかし、あの一〇月にめぐった文化祭がこんなところで活きてくるとは。まったくの計算外だったし、もう本当に運がいいとしかいいようがない。
「ならさ、チカさんは今私のアパート付近にいるんだよね? 自転車?」
『はいそうですけど?』
むすっとした顔。それでも私は満面の笑みだ。なんてったって、チカさんにしか頼めないことがあって、こちとら貸しもあるときたんだ。菓子を用意してくれるレベルのね!
「ポストに鍵があるから、それを使って中に入って!」
お願いがあるの。模試帰りの大学受験生にこんなことを頼むのは気が引けるが、人命が絡んでいる以上、背に腹は代えられない。真剣な声に応えるかのように、チカさんは必要なものを何度も復唱してくれた。恋人のためにと用意しておいた合鍵が、土壇場で存在意義を取り戻していく。
小学生に別れを告げ、また別のところに電話をかける。備えあれば憂いなし。
「もしもし? 大変です、今すぐ来てください」
今度はこっちが小細工を仕掛ける番だ。
「先生ー!」
登戸駅から向ヶ丘遊園駅にまたがる小田急線路沿いを駆けていると、前から赤い自転車に乗った高校生がやってくる。よかった、今日はパンクしていないんだねと冗談でも言おうかと思ったがやめておこう。怒られても怖いし。それに、川に飛びこんだ両の足はとても重たく、ここまで数百走るだけもどっと疲れてしまったということもある。
「チカさん、ありがとう!」
歩道の脇へ避けながら、彼女が持ってきてくれたタオルで足先を拭いていく。おおざっぱに、そして素早く仕事をこなすのだ。
「先生、なんでもいいって言われたのでこれを持ってきたんですけど、大丈夫でしたか?」
彼女は地べたに容赦なく座りこんだ私に戸惑っているようだったが、裏を返せばそれだけの緊急事態だということを察してくれている様子。替えの靴下を引っぱりながら、持ってきてくれた靴を確認する。
「……いいものを持ってきてくれたね。ありがとう」
恋人が私にプレゼントしてくれた、ナイキエアマックス200。性能としてはおしゃれスニーカーの域を脱しないが、それでも重たい上履きのようなコンバースと比べれば雲泥の差だ。しばらく履いていなかったから、馴染むかという不安はあるが。
「マチちゃんのこと、なにか分かったんですか?」
彼女も私の必死さに、あいつの影を感じとったらしい。乾いた靴に包まれた先端、水まみれの違和感が消えていく。これならちゃんと走れそうだなと安心しながら、時間を喰ってしまっただろうかと不安にもなる。
「……分からないことばっかり」
なんであいつが、そんなことをしようとしているのか。人を殺そうとしているのか。私には理解ができない。でも、どこにいるだとか、どうすれば会えるだとか、そういうことなら分かっている。こんな解説をチカさんにするわけにはいかない。彼女を巻きこむわけにはいかないからだ。これは私とマチの話なのだし、決着をつけるならふたりでなければならないのだ。
「マチについてさ、私は勘違いしていたんだ」
あいつの陰り。きっと寂しかったんじゃないだろうかとか、苦しかったんじゃないだろうかっていう邪推。現実には存在しなかったマチ。あいつはだれとだって、たんなる好奇心でしか接していなかった。だれにも本音を吐露しないんじゃなく、いつだって本気で思ったことを話していただけなのだ。勝手に重ねていた、思いこみの影。
「それをさ、伝えにいこうと思う」
そうですか……まったくしょうがないやつらですねと呆れているチカさんは、私が脱ぎ散らかした靴なんかを自転車のカゴへと放った。赤が濃くなる一方の風景で、快速列車は容赦なく街の中心を切り裂く。
彼女が手を差しだす。頼んでいた最後のアイテムだ。私はコートのポケットにそれを忍ばせ、できることなら使うことがなければいいなと淡く願った。
「あと片付けはしておくんで、マチちゃんを迎えにいってください」
ため息をついたチカさんに感謝を叫び、ご無沙汰していたスニーカーに身を任せる。弾力も掴みもやっぱり違う。駅へと走る私を押すような力が働いているかのよう。踏切も今度は邪魔をすることはなく、海を割った預言者のように私を讃えてくれた。カーブを曲がる、体重の負荷もなんのその。彼に買ってもらった個体だからと消耗を避けてきたが、生田の山もこれで登ったらずいぶん楽だろう。私を楽にしたいと言っていたらしきマチより、この子のほうがずっと利口に助けをくれるのだから皮肉だ。
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