登戸の渡し跡
瞬間景色は変わりはじめた。多摩川までの裏道を駆使したショートカットを頭に思い浮かべる。数年とここに住んできた甲斐があったというもの。正方形じみた区画を右へ前へとつき進み、コンバースは限界いっぱいと地面を痛打。中距離選手だった自分が今ここに降臨してくれないものだろうかと期待しつつ、儀式のために呼吸を整える。乱してはいけない、一定を保ちつつ、かといって楽をさせないラインを攻めろ。
まいばすけっとを望みながらへばってきた肺に喝を入れる。三〇〇〇本安打さんもびっくりなひと声とともに右へ転回、目の前には踏切。ちょうど信号機が明滅しはじめるタイミングだが、遮断機をくぐって死の空間からいち早く抜けだした。叫ぶ踏切のなかにつっこむなんて普段なら絶対にしないのに、今はかがむ時間のロスすら惜しい。大きな病院を過ぎればいよいよ土手だ。階段もない剥きだしの大地を掴んで上がる目算二メートル。
「……ここだ」
胸を目いっぱい使った息を大気に放出。地球温暖化にひと役かってでる代わりに、河川植物の光合成を促した。といいつつもう陽は沈んできているか。眼下に広がっているのは、川岸が不自然にくぼんだ小さな入り江のような場所。古くはここから東京へ渡し船が出ていたころの発着場だったらしい。登戸の「渡し跡」。あいつが「私」なんて一人称を使ったところなんて聞いたこともなかったから、ずっと引っかかっていた違和感。手帳を受け取ったあの日から刺さっていた小骨が、ようやく抜けていった思いだ。
「……濡れてる?」
渡し跡近くの堤防が放射状に変色している。灰色のコンクリートに黒く水が広がっているのだ。それ以外の場所にはそういった現象が見られないということは、おそらくここになにかしらの物体が置かれ、そして戻されたのだ。
「こんな寒い時期によくやるわ」
おそらくはマチがやったように、私も土手を降り岸辺へと、歯を食いしばって川へと足を浸す。水が濁っているのと光の屈折が影響して、底の様子もうまく分からない。足を滑らせないようにと気をつけようにも、ジーンズの隙間から大挙して押し寄せる冷水を相手に、皮膚感覚は総崩れとなってしまった。それでもなんとか、明らかに川底にあるのが不自然なくらいの銀色を発見し、棒のような足で水を蹴飛ばし進む。冷たさから暖かさへとさらに感覚が変質するより先、左手を潜水。小さなツールボックスを引きずりだす。質感としてはプラスチックなのだが、想像よりも重たいのは水中だからか、なにかほかのカラクリか。
「これは……」
水から地上に戻ると、極寒に包まれた足と左手。身体の先端をあちこち振っては水を飛ばす。風呂上がりの犬のよう。震える身体を酷使して、プラスチック樹脂の硬いふた留めを外そうとする。が、シバリングが激しくて力が入ってくれない。筋肉の振動で熱を作ろうとするのは結構だが、本来の仕事をしてからやってくれないものだろうか。
「こりゃまずいな……」
想像以上に体力も持っていかれるし、靴も水浸し。動けなくなったというわけでもないけれど、鈍ることは避けられそうにない。このあとまだ、マチを見つけて止めないといけないのに……。
「大丈夫ですか?」
背後から声。天空からの蜘蛛の糸。こんな休日の夕方に、困っている人へ声をかける人なんているのだろうか。今は夕食前、好きなことをしておくべき時間だ。とくにこの声の主なんか、幼い色をしているのだから。学校がない日はゲーム、映画、読書、勝手に楽しむのがおすすめ。人によっては習い事があったりするだろう。女の子ならピアノとかバレエとかが王道だろうか。めっちゃ偏見だけれど。それ以外にもスポーツなんかいいんじゃないだろうか。この子みたいに帽子を被ってバットを持って、野球なんかを嗜むとかさ。
「あれ? あなたはお姉ちゃんの……」
そうか、今日は土曜日だ。チーム登戸(仮称)の練習日。声をかけてくれたのは素敵な手紙をくれたサナちゃん、の妹さん。カナちゃんといったはず。そのうしろにはショートカットの野球少女も同伴していて、すでにタオルをカバンから出してくれている。
「これ、使ってください」
ショートカットちゃんが服の上からごしごしと、乾いたタオルで私を拭いてくれた。水分もなくなれば摩擦熱で体温も戻ってきてくれる。足だけではなく腕も順ぐりにやってくれるようで、自分でやるといっても聞いてくれやしない世話焼きさん。若干力が強すぎるような気もするが、文句を言える立場でもないから違うことを口にした。
「ねえカナちゃん、もしできるならそのケースを開けてみてくれない?」
「え? あ、はい。分かりました」
顎で使って申しわけないが、今は一分一秒だって惜しい。乾布摩擦を受けながらも、カナちゃんの渾身で開けられた防水セーフティケースの中へ熱視線を注いでいる。いたれり尽くせりとはこのことだろうか。練習帰りの小学生が、この瞬間の私には神か天使に思えてしまう。
箱の中身、まずは発泡スチロールがお出迎えで、私が言うこともなくカナちゃんが取っ払っていく。その次に出てきたのはだれでも分かるほど銃の形にくぼんだ、同じく発泡スチロール。しかし、くぼみがくぼみであるということは、その本体が不在ということ。手の平より少し大きいサイズのビニール袋と中に詰まった乾燥剤。それ以外にも、やたらと太い筒状のものがあったへこみもあるが状況は同じ。あるのは隙間だけで実物が存在しないという虚無。
「……エアガン、でも入ってたんですかね?」
ショートカットちゃんはそれが実銃のものとは夢にも思わず、極めて現代日本で可能なアイデアを提示した。私はそれに答えることなく、拭いてくれてありがとうと目を見て告げた。そしてかなり熱を増した、それでも寒くてしかたがない脚でケースまで向かう。すでにマチが拳銃を回収したということは明らか。だがあいつのことだ、きっとここにもなにか仕込んでいるだろう。
「カナちゃん、ちょっとごめんね」
横に退いた少女。こちらを心配そうに見つめていて、目元なんかはサナちゃんとあまり似ていないなと新たな発見をくれた。姉妹だから似ていなければならないわけでもないし、きっとそれぞれ色濃く引いたどちらかの岸があるのだろう。
「たぶん、これをどかせば……」
ボロボロと白い破片を作りだしながら、どうにか床材となっていたスチロールを引っこ抜き、それらが発生させる静電気に怯えながら箱の底へ。マチが、おそらくは最後に残したヒントを手にとる。紙の塊。あいつがダンチの事務所で延々と読みふけっていたのだという作家の、もっとも著名な作品。隠し場所が川の底じゃ名前負けすぎるが、その程度じゃそこに印刷された物語は色褪せやしないか。
『海底二万里』
『地底旅行』『十五少年漂流記』を著したジュール・ベルヌのもっとも有名な作品。東京ディズニーシーにもアトラクションが設置されていた。センター・オブ・ジ・アースのそばだったはず。しげしげと表紙を眺めていると、ふたりの少女も左右からそれをのぞきこんできた。こんな厳重に保管されている文庫本は珍しいだろうか。いや、私だってはじめて見るが。
「カナカナ、これ図書室になかった?」
「あったと思うよ。読んだことないけど」
小学生というものは自分が見たことあるもの知っているものが登場すると、すぐにアピールをしてくるもの。どこの子供も変わらないなと笑いつつ、ここからマチが向かった場所のヒントを探る。ここでしくじったらアウト、時間がかかりすぎてもアウト、マチが消されればスリーアウトだ。
「これ、どんな話なんですか? っていうかなんでこんなところに……?」
えーっと……今そんなことをしている時間もないし……。ただズボンをめいっぱい擦ってくれたり、私の手となって箱を開けてくれたりした彼女たちを無下にもしたくない。しかし、最後に読んだのはいつだったかな……。
「ひ、ひとことで言うと潜水艦に乗ってさまざまな海を旅する話なんだけど……」
ほう。とふたり。でもこれは、さあ続きを喋ってくれという表情だ。参った、最後はよく覚えていないんだけどと降参するにせよ、はじめから試合を捨てるのも申しわけないし……。
「私が印象に残っているのは、潜水艦の艦長、ネモって人なの」
というわけでキャラ愛だけを語るという道に慣性ドリフト。そのあいだにも考えるべきだ。二〇〇〇〇という数字は確実にこの作品のことを指しているのだろうし、だったらきっと最後のピースがここにある。マチの言動も同時に思いだすんだ。違和感を探せ。あいつが挑んできた知恵比べを征するために。
「いつでも冷静沈着で、冷酷で非情な面を出すこともあるんだけど。心の奥底では海や冒険をすっごく愛していて、フィジカルもサメと戦えたりするくらいには強いし……あまりにも有名だから別の作家が名前を拝借することも……」
ん? 説明もそこそこに私は文庫本のページを開く。順ぐりにめくっていくと、蛍光ペンで特定の単語だけに色が塗られていることが分かった。案の定、今魅力を語ろうとしている人物、ネモという名前に。
「あはは、なるほど」
これをレモ船長と聞き間違えているやつもいたな。感傷に浸っている暇もないから、バカだったなと思うだけに留めるわけだが。
ひとりで笑いはじめた私に、小学生たちはさらに怪訝そうな顔になる。いやはやごめんね。でも頭のなかを整理させてほしいんだ。たぶんもう、分かったと思うから。
「白い菊」
マチから預けられたという花。死者へ贈る、鎮魂の祈り。
「あの手紙」
名古屋から届けられたサナちゃんからの手紙。そもそも、彼女はどうやってこちらの住所を知ったのだ? だれを経由して? 可能なのは、どのタイミング?
「『海底二万里』」
ネモという文字が彩られた一冊。これらが導きだす座標。
「……あそこだ」
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