走れ塾講師
そりゃダンチが私の住所や部屋番号まで知っていることぐらいは承知していたが、いないあいだに入りこんでいるのは寒気しないぞ。普段使っているローテーブル、あぐらの姿勢はそこに相対するのにふさわしいのだが、彼には釣り合っていない。住む世界が違うのに、無理やり適応するとこんなに不格好になるのか。一冊の文庫本で時間を潰していたらしい彼。死んだ恋人とは全然違う、背景から浮いているようにしか見えない。それは、明らかにマチとも異なるところだった。
「しかしイズミ。お前さんの心持ちがどうなったかを聞いている時間はない。が、ひとつ言わせてもらう。なあ、ポストに溜まっているチラシぐらい回収したらどうだ」
彼が片手に持っているのは宅配ピザやすこぶる近くにある回転寿司のクーポン付広告。よけいなお世話だと思わないでもなかったが、このあいだ彼の母親にもチクリと小言を貰ったんだったな。
「ひょっとしたら大事な手紙が入っているかもしれないじゃないか。こんな風な」
その広告の束は床に落ち、彼の手に残ったのはひとつの封筒。白いそれに青のシールで封がされている。丁重なお手紙なんて、役所に払い忘れたなにかしらのお金を請求するサムシングくらいしか覚えがなかったから、いったいだれからだろうと首をひねってしまう。
「少なくとも、これで小数点以下の意味は判明したな」
封筒を滑らせ、机のこっち側でぴたりと止めた。謎テクニックだ。
「なにを言って……」
宛名にはあの子の名前。私をなんとかして見つけて、お願い事をしてくれた中学二年生。リストカットの跡が目立った、ヒグラシを求める低い視線。夏の終わり、秋のはじめ。私たちは幾度も多摩川の河川敷で雑談をしては、お互いの距離を埋められなかった。
「サナちゃん……」
三七、サナ。ありきたりすぎてバカバカしいが、仕組まれていたことを隠しもしない証拠。郵便局が貼りつけた指定日配達シール。一一月二八日。
拝啓イズミ様
ちゃんとした書きだしでなくて申しわけないんですが、急いで書いているので失礼させていただきます。私のことを覚えておいででしょうか、サナです。
東京と神奈川のあいだを流れる多摩川、九月、いっしょにその日暮らしの人を探してほしいとお願いをした中学生です。イズミさんは普段から中高生とたくさん接しているそうですし、ひょっとしたら忘れてしまっているかもしれません。だとしたら少し悲しいですが、私の失礼も忘れてもらえているのなら、それでいいのかもしれません。
積もる話があるような気がして書きはじめたのですが、なにを書けばいいのかは分かりません。たくさん謝らなければいけないことがあると感じていますし、それが届けばいいなと願うばかりです。ただ、怒っている人への謝りかたを間違えるとさらに火をあおる結果になることも、おうおうにしてよくあります。だから真正面からごめんなさいと言えなくなったのだと自己分析をしています。それでも、突然約束とかを放りだして、一方的に去っていたことを私は申しわけなく思っています。けれど、幼いころから転校続きできちんとした友達ができたと実感したこともないし、だからこそきちんとしたお別れのしかたも分からなかったのです。あの土手に行けなくなる前日に言えばいいのか、それじゃ遅いならその前の日なのか、同じようなものなら何日前なのか。分かっているなら最初からお別れを告げておくべきなのか。じゃあ転校したその日に教室でお別れを伝えておかなければならなかったのか。分からないのです。
イズミさん。私は今、名古屋という都市にいます。大きな庄内川という水の塊が家のそばにあって、毎日のように眺めています。なんでも昔、渡し船なんかが行われていたそうで、多摩川と似ているような気がしています。いつも私は、退屈になるまでそこにいます。となりにはだれもいませんが、ひとりでも大丈夫だと思うようにしています。
もしよければお返事をください。声に出すというか、ちゃんと言っておかないといけないと思ったので書きました。それでは季節も寒さを強めてきていますが、お身体にはお気をつけください。
サナ
便箋にしわくちゃにしないよう、とにかく手から力を抜こうとした。それでも心の底からあふれてくる熱い息を、歯の隙間から吐きださないといけない。軽く咳をして空気を循環。ずっと気になっていた。LINEの返信がなかったことに気をやつすなんて歳でもない。それでも彼女が私の元からいなくなって、どのように過ごしているのかを知れず、じれったく思っていた夜が何度あるだろうか。何度彼女とのコミュニケーションが失敗だっただろうかと反省しただろうか。それが今、ずっと望んでいた連絡が目の前に現れたのだ。これが嬉しくなくてなにがなりうるだろうか……!
「……感動しているところ悪いが、なにか分かったことはあるか?」
無粋なやつめ。しかしながら、たしかになにかのとっかかりにはなりそうな手紙だ。しかも、ありとあらゆることが。
「まず二〇〇〇〇.三七の三七は、この手紙のことを指しているとみて、間違いないと思う」
「その手紙の内容になにかしらのヒントがあると?」
「そう考えるのが妥当ね。ただ二〇〇〇〇のほうはなんとも……」
ふむ……。手紙の内容にもなにか変わったところはないだろうか。サナちゃんが書いたということが根本的にフェイクであるという可能性も考えられるが、そんなの疑いだすとどうしようもない。しかも、この文章の唐突さや行き当たりばったりな文体は、意識して出せるものでもないだろう。考えろ。なにかあるはずだ。
「ではイズミ。俺から二、三質問をしていいか?」
「は? なにをこんなときに」
「まあいいじゃないか。これまでお前は大勢の人間からマチの話を聞いてきたはずだ。だからこそ、そろそろお前の口から聞きたい。マチはお前といるときどんな風に振る舞っていた? いなくなる直前、おかしな様子はなかったか?」
今聞くのかよ。それに、私とマチの監視なんてこいつなら容易じゃなかろうか。
「それでも考えるんだ。お前が最後にマチと会ったのは?」
どうしろというんだ。いや思いだせと言っているのは分かる。もう昔のことに思えるが、二週間前、あいつはそこのベランダで……。
「なんか、私と付き合いたいって言ってた。でもそんなの今に始まったことじゃないし……」
「ほかには?」
食い気味だ。
「あとは……紙コップを捨てた。下の墓に」
「ほう。あいつらしく傍若無人でいいじゃないか」
「違うの、むしろ逆。あいつといっしょに歩いていて、ゴミをポイ捨てしたところなんて見たことがない。だから驚いたの。まあバチ当たりってこともあるけど……」
それだけか? さてどうだろう。いつもと違う様子。つまりは違和感がどこにあったのか。やたらアンニュイに見えた気もするが、私も若干センチメンタルに浸っていた日だからそう感じただけ? だけどそんな印象論じゃなにも進まないだろうし……。おかしいだろうってところ。なんで? って足を止めてしまいたくなる言葉。
「……二年間の休暇」
そう。あいつは二年間の休暇と言った。自分が過ごしてきた高校に行かなかった期間を。この大学受験が迫る、三年間が終わる時期に。そりゃ三年はぎりぎり経っていないが、にしたって二年と言いきるのにも無理があるような気もする。
「ほう。じゃあ、どんぴしゃりだな。この作家は、とくにマチのお気に入りだったんだ。あそこに藤子・F・不二雄の漫画がない代わりと、読み漁っていたさ」
机の上。ダンチが暇つぶしに持ってきていた本に私たちは視線を向けた。
「そうか……なるほどね……」
ジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』、少年たちの無人島生活を描いた作品。有名な話だがタイトルは和訳時に改変が加えられたもので、原題は〝Deux Ans de Vacances〟二年間の休暇という。だとすると二〇〇〇〇の意味は自明だ。
「もうよさそうだな。イズミ、今日これからのことを忠告しておく」
無造作に転がっていたコートを肩にかけ、ダンチはよっこいせと立ち上がる。私へ手を貸すのはこれでおしまい。表情にも温かみがなくなって、どこか宙も見ているようになる。情というものが人間の目から抜け落ちていく瞬間とは、こうもあっけないのか。
「マチが人を撃ち殺し、それが大きな騒ぎになるようなら、消すしかなくなる。こっちにも抱えている案件を、投げだせない事情があるからな」
解体屋の論理というものはそういうものか。トカゲの尻尾切りで落とされてきた屍に、このままではマチも加わってしまう。と、ダンチは玄関へ向かう背中で語っている。茶飲み友達とかそんなものは関係がない組織運営。
「待って! まだ分かっていないことがあるの、この英数字の羅列とかなにか知らない?」
引き留める。親と電話した夜、ジーンズに入っていた紙切れを差しだしたが、即時かぶりを振って彼はまた歩きだす。そんなものは知らないと。
そもそもマチがどこにいるかっていう肝心なことが分かっていないじゃないか! なんならダンチを拘束するために、今すぐ不法侵入で警察に通報するべきなのだろうか。てか普通ならそうしているか。私の家庭内時間を破壊しておいて、なんだって今度は制止も聞かずに出ていく? どんだけ勝手なんだよお前。ヘッスラしたせいでぶつけたデコも痛いし、こいつの相手をしていたせいでまだマチの手帳もチェックできていないし……。
「手帳……」
そうだ。まだ私はあっちを見ていないじゃないか。ダンチはドアを乱雑とも丁寧ともいえないちょうど中間の勢いで閉めた。私は飛ぶようにリビングに、机の上にあった手帳を凝視する。ダンチの言ったことを反芻しながらだ。
「違和感、どこだ……?」
カレンダーなんて凝視してもしかたがない。二〇〇〇〇.三七にもう用はないのだ。私の予測が正しければ、もう解読する余地はないはず。だったらそう、違和感とともに読める部分なんてここだけ。
『私のあとに来ないでください』
カバンだけジェットソンして下の階を気にすることも放棄。玄関をコンバースとともにぶち破っては外へ。扉はさすがに施錠したが。また開けるときに期待を裏切られるのだとしても、生活に必要なことはするべきなのだ。
「ダンチ!」
まだ階段を降りたところにいた男へ、叫びをもって最後の抵抗。足を止めてはくれなかったが、待ってくれるように緩めてくれたのが分かった。じゃあ素直にこっち向いてくれよ。
「花屋のおじさんが死んだことについて、許すことはないと思う」
あらためて告げておく。私たちは分かり合えない。こいつの生きている世界と私の生きている街には大きな隔たりがある。多摩川となんか比較にならないぐらい。南極観測船でもたどり着けないほど、広大な海原だ。
「でもマチは私が見つけるから、大丈夫。安心して」
その点においてだけ、気持ちを同じくしていられる。彼だってあいつを殺したいわけでもないのだろう。マチを消す。苦肉の策ということならば、労することなく終わるに越したこともないのだし。
「勝算は?」
スズメが鳴いた。夕凪、マジックアワーの開幕だ。
「マチのみぞ知るってとこね」
風が吹いた。氷が撫でていく。夜はもう、すぐそこまで来ている。
ダンチは口を押えるようにやや笑い、なんでだかなと呟いた。私がその真意を理解することはないだろうが、ひとり言なんてそんなものだろう。他人の心で起きたことなんだから、逆立ちしたって読めやしない。
「競争だ。走れ塾講師!」
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