知恵比べはまだ終わっちゃいない
「今日は急遽出ていただいてありがとうございました」
二〇二〇年一一月二八日土曜日。短くなった陽とはいえ、夕暮れもまだ先だという時間。ひとコマだけの授業を終えて報告書をまとめている。タブレット端末を叩けばあっという間に本日分の授業内容を文章に起こせてしまう。数年前までは手書きだったから面倒もあったのだが、このおかげでずいぶん楽になった。塾長の感謝を画面へ視線を向けながら受け流す。あっさりとやってきてしまったDデイを職場で過ごし、平穏に公民は経済にかんして解説をしたわけだ。どうにも現実感がないが、ともかくとして今日マチは人を殺すのだという。反社会勢力から購入した拳銃を使って。私は世界のどこかで起こる殺人に対してとことん無力で、マチを追いかける自分に失望もしてしまった。今日をどのように過ごすかと考えたところで、意思も身体も事件へ立ちむかうことはできそうになかった。次回の予習もなんとなく済ませたら、タイムカードを切ってスーパーにでも寄ろう。今日マチに撃たれるのだとしたら、せめて夕飯までは待ってもらえるように頼めばいいし。
「今日もマチさん、探すんですか?」
「いえ、べつにもういいかなって……」
塾長はああそうですかと平坦な声。本棚に戻すべき教科書を運んでいた最中だったから事務的な返事だ。教室外のプライベートについてとやかく言われるのも嫌だったし、なにより本当にマチを探すつもりなんてないんだから。チカさんの一件でなにか勘違いをしてしまったのだ。いや、そのほかの子でもそうだ。自分にはだれかを助けることができる。少なくとも助けるつもりで行動できる。道を踏み外しそうになっている人がいるのなら、とにかく捕まえて話を聞こうとする。でも結局は死んだ人間の穴埋めをしているだけ。傷が塞がるまでのあいだ、考えていられることを求めていただけ。うんざりだ。
「そうは見えないですけど……イズミ先生は本当にそう思っているんですか?」
「ええ……」
おまえになにが分かるというのだ。人が自己に対して感じた失望なんて、ほかのだれにだって理解されてたまるものか。他人のなかの自己嫌悪を知ったように話すのは、なんと愚かでおぞましいことだろう。この人に分かるはずない。ないのだ。私のことなんて。マチのことなんて。
「……え、そもそもどうして私がマチを探しているって知っているんですか?」
本棚から自分のカバンへと戻ったところで、違和感に気がつく。この人に話してなんてない。職場から飲み屋街を歩いてはパーカーの尻尾を追っていたことなんて。
「あ、いえ、べつにストーキングとかしてないですよ? 本当に! ご不快だったならすみません!」
声がでけーよ教室じゃまだ授業しているんだからさ。同じ懸念を思いだしてくれたのか、つまみをひねったようにボリュームを落とす。尾行されているとかは思わないけれど、じゃあどうやってそんなことを知ったのかという疑問は解決できない。最近の日常はひどいな。なんにも解決できていないじゃないか。せめてこれくらいのタネは明かしてもらえないだろうかと、彼の発言を待った。塾長の言葉を自発的に待つなんて、業務以外でははじめてかもしれないぞ。
「まあその、いまだに世界史の教科書を持ち歩いているからですかね。カバンから出して、予習中ずっとそばに置いているので、マチさんを連れ戻すつもりなんだろうなと……気持ち悪かったらすみません……」
お辞儀だ。望んでもいないのに。
「いえ、全然お気になさらず。あんまり自覚していなかったですけど、たしかに持ってくる必要、なかったですね……あはは……」
信じられないことに、指摘されるまで気がつかなかった。律義にこんなものを持ち歩いていたから、やたらとカバンが重かったわけか。飲み屋をめぐるのも嫌になるわそりゃ。『詳説 世界史』だけじゃなくて水も入っているし、一回家に帰ってから出直しておくのが吉だった。なにやってんだかね。
「でもまあ、そこまで生徒想いになっていただけるのは嬉しいですが、マチさんが本当に辞めたいと言ったら引いてくださいね」
苦く笑っている塾長は、私を咎めているつもりだろうか。それとも無理はしすぎないでくださいねというエールか。煮え切らない応対になにか影響を受けるいうこともないが、どうして彼が疑いもなく私がマチを想っていると言えたのだろう。少し気になったからコートを着て問いかける。
「ところでこんなことを今聞くのもなんですが、どうして私がマチの世界史を受け持つことになったんですか?」
この塾には高校生の世界史を担当できる講師がいない。文系の講師もほとんどが日本史選択をしていたせいで、からっきしという人間ばかりだった。適役だとかなんとか言われて押しつけられたという印象しかなかったけれど。
「マチさんの希望でしたね」
過去形。短文だとやけに際立つから日本語って不思議だ。
「イズミ先生ならやってくれる。と直々のご指名でしたよ」
「は、はあ……」
それは理由になってないのでは?
「国語の授業でした質問に、イズミ先生が返した言葉が決め手と言っていました。たしか……」
ああ、最初の授業のあれか。
「先生、どうしてカムパネルラは死んでまでザネリを助けたの?」
「べつに自分が死ぬかどうかなんて考えてないと思う」
「そうなの?」
「たぶんね」
そりゃ、私の想像でしかないが。
「自分がやるしかないのかなって、ただ引き受けただけでしょ。それでいいじゃない」
引き留めてしまってすみません。という見当違いに首振った。そもそも私が質問を重ねていったのだし。職場を出てから生田緑地を歩いていく。最初はコンバースが地面を叩く音をただ聞いて、薄い青色の下で揺れる木々を抱きしめる。森の真ん中に開けた広場には、ムギちゃんと同じくらいの子供たちがやんやと遊んでいた。ひょっとしたら彼女も混ざっているかもしれない。踏みしめられた芝生も嫌な顔ひとつせず、転んだときのクッションとしていつでも手を広げていた。蒸気機関車の客車を横切ったあたりからどことなく足の出し入れが加速して、私の身体は前のめりになっていく。下り坂はむしろ全力で走ることがむずかしいから、上手く重力と体重を使わなければならない。変なことをするとひざを痛めるぞとコーチに注意されたこともあったな。無心で走るにも長い距離だから、なんでこんなに急いでいるのだろうかと自問してしまう。それらの声にうるさいとただ怒鳴り返していてもかわいそうだから、とりあえずと帰宅一番にやることだけは決めておこう。
「二〇〇〇〇.三七」
これについて考えるしかないのだ。一度引き受けてしまったし、締め切りだって今日なのだ。宿題についてうるさく言う仕事をしている以上、守らないわけにはいかないんだ。視界の端から流れていく緑、ショウブが植わった小さな池も要らない。そこにマチがいるのなら、今すぐにでも飛びこむが。あいつが呼んでいる場所はそこではないだろう。なにかヒントがあるはずだ、なかったとしても走らないと。知恵比べはまだ終わっちゃいない。自分にとってあいつがどうとか、死んだ恋人がどうとか、今は一回無視するしかない。頭でっかちに考えていたら、人間はなにもできやしないのだ。とにかく身体を動かせ。他人の言いたいことを見抜くには、そうするしかないんだから。
二段三段飛ばして階段。よじ登るように最上段を掴んだら今度は通路を高速移動。鍵を回して急ぎ部屋の中へ。リビングに置いてあるあいつの手帳。
「おうイズミ。帰ったか」
そのままヘッドスライディングばりにずっこけて、テーブルの脚に顔面をしたたかに激突させた。ともかく帰宅タイムアタックはおしまい。生田緑地ダウンヒルの最速記録が出た瞬間だ。黒いタートルネックに黒いジーンズ。ダンチは一連の野球じみたオチを鼻で笑った。不法侵入を棚に上げて。
「なにやってんのよ!」
「お邪魔をしている」
「いやなにやってんのよ!」
お前ら私の家をなんだと思っているんだ。
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