優しい人
そういう不明瞭な清々しさと悲しさを感じていたのは、荒れ狂って元のレイアウトがどうだったかも分からなくなった寝室。有休休暇をありったけつぎこんだ私は、彼の持ち物という持ち物を、端から端までくまなく調べつくした。彼が生きていたという証になりそうなもの、形見としてふさわしそうなものをとにかく探した。ハサミはこの家から離れていってしまったから、それ以上に彼が大切にしていたものを捜索するしかなかったのだ。きっと見つかるはずだった。発掘できないのならば私がいけないのだ。無能なのだ。
死体みたいに動かなくなった洋服には洗濯用の表記しか書かれていなかったし、誕生日がパスワードだったスマートフォンには要らないメールしか溜まっていなかった。この部屋に彼がやってきたときにも驚愕したが、元来ミニマリスト傾向のある彼は大きいキャリケースに詰めこめてしまえる量の私物しか持っていなかったのだ。だからこんな狭い家でふたり暮らしができたのだが、あいにく住むにしたがって物量というものは増えていく。一定以上根を張った植物が移植する負担が大きくなるように、きっとこれで彼が家から出ていきにくくなるだろうと思えていた。その実彼にとってはたいして思い入れもないのであろうポップソングCDやたいして使わなかったエプロン、ひと夏じゃ余ってしまった虫よけスプレー、消耗品にすぎない目薬、練習もしなかったハーモニカ。どれもこれも彼にふさわしくない。彼の表象にはなりえない。仕事関係の書類たちも、信じられないくらい用なしだ。
この寝室は主がいなくなったハムスターケージのよう。とっちらかっているのはきっと、ハムスターが死ぬ直前まで元気だったという証拠。つまりはきっと事故で死んだということ。どこかから落ちたか踏まれたか、あるいは失踪してここではない世界でたくましく生きているか。妄想をしたって広がるのは虚無ばかり。起きても食べたいものもなく、寝ても望む夢もない。埃っぽいのは私自身もゴミみたいだから。
幽明境を異にしたのだ。ぐちゃぐちゃなベッドの上で自分の手ばかりを見つめていても、世界はいっこうに回らない。いっそのことこの街が廃墟になってくれるのなら、私の心になんてピッタリ合うのだろうか。朽ちた世界を望んで、生きている他者を拒絶したい。そうすれば自分が生きているかどうかも気にしなくて済む。世界が終わることを望むのは、遺憾ながら私が生きているからなのだ。腹が減ってしまうからなのだ。脱水による頭痛で顔を歪めながら台所までたどり着き、放置していた生ごみの匂いといっしょに水を飲んだ。浄水器を介していなかったが、飲めるならなんでもよかった。それから冷蔵庫にあった白米をチンしてラップを皿に食べた。美味しくなかった。なんで私食べているんだろう。ねえ、どうしたらいいんだろう。食べるべきではないのだろうか。
「はむ……」
だれのために?
ハムスターのときと同じような対応をしてもしかたがないのに、こうなった人は藁にもすがってしまうものなのだ。コートも着ていなかったし、スウェットかなにかだけで足を運んだ駅前。大好きな花屋で菊を財布の中身で買える分を全部買おうとした。ハムスターで一輪だったから、きっと人間なら何百倍も買わないといけなかった。お店の在庫量を聞いたらたいした金額にならなさそうだったから、ATMまで行ってお金を卸してきた。店長さんはいつものように笑顔を振りまいてくれなかった。それがなによりも悲しかった。スタンダール症候群的に涙することは何回かあったが、感情に任せて涙するなんて何年もしていなかったのに、このときばかりは目頭が熱くなった。なんでそんな顔をするんですか?
「……ありがとうございました。あの、また来てくださいね」
バイトの女の子がお店に出てきているところをひさしぶりに見たから、私はなにかを言ったはずだ。彼女も、息抜きで、人手も必要だったのでちょうどよかったんです、みたいなことを返したはず。細かいところなんて覚えていないものだが。目の前が塞がるくらいの菊の花を抱え、私は家へと歩きだした風景は鮮明だ。視界はもう、花畑だった。
「イズミさんは優しい人なので、きっとだれかが見てくれていますよ」
背後から聞こえた女の子の声に、私は手を振り答えたかった。塞がっていたのでできなかったが。持ち帰った花々は瓶に全然入りきらなかったから、すぐにすべて枯れた。放っておいたら虫がわいたから、捨てた。最後の有休を使った日だった。次の日からは、ちゃんと先生をやれたから、今となっては笑い話だ。当時としても泣ける話じゃなかったが。
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