お義母様


 金曜日の昼。ここから夜までは仕事で帰らないなと火の元なんかを確認して、着替えやらなんやらをカバンに放る。水筒は浄水器を介した水でいっぱいに。喋りまくる仕事できちんと給水が自由という部分は、本当にありがたい。マスクをして問題の解説をするとどうにも酸欠気味というか、頭がぼんやりとしてくることもあるから、その点にかんしてはいただけなかったが。まあ、時代というやつか。


 今日はまっすぐ帰ってきて自由に過ごそう。せっかくだしマチが私に預けていったのだという白い菊でも絵にしようか。細かい花だから、まともに描ける気はしないが。チャレンジすることは悪ではないし。そう考えると気が楽だ。行ってきますと声を出す必要もない部屋をあとにして、午後の陽気なんて屁でもないと吹きすさぶ風にしかめっ面。


「イズミさん、ですよね?」


 小さなアパートの狭い通路ですれ違ったのは、五〇代くらいの女性だ。どこかで見たような気がしたのも、同じアパートに住んでいるからだろうと結論づけていたが、声を聞くとまた別の場所での記憶が舞い戻る。反射で思わず息を呑んだ。一生会うこともないんじゃないだろうかと、根拠も多少あったのに。


「お義母様……と、まだお呼びしても大丈夫なんですかね?」


 もちろん。茶色い髪の毛のシルエットがつるりと卵のようなフォルムになっている、整えられたお姿だ。私なんて一年近くもまともに頭をいじっていないのにさ、圧倒的に彼女ほうが麗しいじゃないか。


「まあ、そうとしか呼びようもないでしょうし、お気になさらず。今からお出かけのところですか? ポストからしていらっしゃらないのかと思いましたが」


 しっかりと敬語だ。どうにも目上に謙られると調子が狂う。恋人の母親となればよけいに。喪服を着ていた彼女は、話す素振りに生々しさがあったのだが。しかたなく訪れて、おまけに私と話しているだけという様子だ。実際にそれが正解なのだろう。


「はい。出勤するところです」


 業界的に朝早く家を出ていないからか、どことなくうしろめたさを感じてしまった。彼女がなんのためにここに来たのかを考えながら、警戒心ばかりが高くなっていく。


「そうですか。では単刀直入になのですが、来月、息子の一周忌となります。もしよろしければ法事にご参加をお願いしようかと……」


 一周忌。若くして死んだということもあってか、やっぱりその手の儀式はしっかりとやるんだな。普通は親族だけで行うだろうもので、生前付き合っていた恋人が参列することが当たり前というほどではないはずだ。ありえないとまでは思わないが。同棲までしたとはいえ、私たちのあいだには婚姻の意思や時期にまつわる話題なんて出たこともない。親だって紹介したこともない。ただなんとなく、彼の住まいが職場に近い私の家にスライドしただけの関係だ。


「……急、ですね」


「そうです。ですから失礼とは存じましたが、直接おうかがいした次第です」


 さてどうします? とでも言いたげな顔だ。そこには一般に考えられるよりも薄く、わずかなシワが刻まれていて、ハリとまではいかないまでもツヤのある質感がしっかりと残っていた。私が老いたところでこんな見た目にはなれないだろうなという気品。立ち姿も歪んでいるところはひとつもなく、セコイヤのようにピンと伸びた姿勢はこちらを威圧しているかのようだ。


「……そうですね……」


 意図は分からないが、彼女は言葉どおり私を法事に来てほしいと思っているわけでもないだろう。それを汲めないような能力で思春期の子供ばかりを相手していられるか。たぶん、もうおしまいということでいいですよね、という確認なのだろう。


「仕事のほうが抜けられないと思うので……お誘いいただきありがとうございます。本当に、そう思います……」


 すでに知っていたかのようにうなずいて、お義母さんは薄く目を開いた。私たちの繋がっていたのかどうかも分からない細い縁も、吹いて飛ぶようにご破算だ。


「やっぱり、マチさんの言ったとおりね」


 そして、彼女は笑った。


「今……なんて……?」


「マチさん。あなたの生徒と言っていました。私たちのもとを訪れて、きっと断るだろうけれどできれば法事に声をかけて欲しいと。次は名古屋に行くと言っていましたが、まだ帰ってきてはいらっしゃらないんですか?」


 この人の口からどうしてマチの名前が出てくるんだ。理由は今説明してもらったような気もするが、だとしても不可解な点が増えただけ。ここからあいつの実家まで行ったってことか? 新幹線を使えばそう時間もかからないとは思うが、なんでそんなことを? バカなのか。知ってるけど。それで恋人の母親を私の家に寄こした? 


 はあ?


「マチに、なにかされませんでしたか? なにか武器を持って脅すとか、ありませんでしたか……?」


 おそらく銃刀法をフルスロットルで違反している人間のはずなのだが、あなたにさらなる不法行為ははたらきませんでしたか? 疑ってかかるのもマチに悪いかもしれないが、目の前の人間を心配することこそが優先だ。


「いえいえ。そんなことはいっさい。そんな荒くれ者なんですか? マチさんは」


「いや、ちょっとそういうところもあるかなっていうだけなんですが……」


 うしろ手に頭。なんだなんだ? どういうことだ。なにがしたいんだマチは。標的はこの街にはいないのか? ほっつき歩いているの幅が広すぎやしないか。それで言われたとおりにここまで来てくれるのもおかしいぞ。お人好しが過ぎるんじゃないかこの人も。


「そんな経緯でわざわざお声かけいただいたのに、申しわけないです」


「いえ、こちらに寄ったついでだったので……」


 ああ、そうか。ミチルさんは法事に参列するのだろうか。あまり聞きたくはなかったけれど、少なくともこの前後の予定にて、新百合ヶ丘へ小田急線で向かう、あるいは向かったのであろうことはハッキリした。自分でもどうして彼女に固執してしまうのか、嫉妬してしまうのかなんて説明できない。がやっぱり彼に母親にとってもミチルさんのほうがメインで、私はついでという認識なんだなと思うと、清々しくもやっぱりどこか悲しかった。

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