私はマチのおもちゃじゃないぞ
いよいよ赤本に手を出しはじめたメガネさん。解き終わった跡地には努力の証、一定量の丸。夏の成果が表れたなと小さくガッツポーズをしたのは、当事者ではなく私のほう。なんだか元気がなくなっている数日だったが、人生苦ありゃ楽もあるさといったところ。
「ボーダーぎりぎりって感じですね……」
悔しそうな表情。ウィークポイントだった日本史、しかも第一志望でそれなんだからもっと喜べばいいのに。よくも悪くもストイックにお育ちだこと。彼女の中学時代なんかもマジメではあったが、相手を呑んでやるという意欲で問題に向かっているさまは新しい一面だ。もっとも、メリさんとの事件で開花した本能なのかもしれないが。
「いや、よくできてるよ。この時期じゃ上出来もいいとこだよ」
親指をグッと立てて鼓舞するが、なんだか空回りしている喉の調子。チカさんも気を遣ってえくぼを作ってくれるが、まあなんと本末転倒だろう。私が元気づけられてどうする。どちらともなく発生した沈黙を埋めるため、チカさんはそうだと手を軽く叩いて告げた。
「今度の土曜日なんですけど、模試があるので帰ってくるの夕方なんですよね」
うん? そうなんだ。まあ雑談なんて内容はどうでもいいのだし、乗っかるだけ乗ろうじゃないか。
「そっかー、一日がかりだし大変だよね」
「そうなんですよ、参りました」
チカさんはそのまま目を開いては、私の顔を見ている。なんのアイコンタクトだろうかとこちらも返すが、いえ大丈夫ですよ問題へと戻ってしまった。なにか言いたいことがあるのならそうしてくれればいいのに。無理に問いただしてもよくないかと黙っておくことにするが……。
しかし唯一残った大学受験生であるチカさんが、現時点でかなり安定感のある成績を出しているということもあり、肩の荷も少しは下りてきた。あとは私に余裕が出た分、高校受験生たちが回ってくるだろう。学力的に楽になるだけで精神のすり減りが段違いだから、まあそれはそれでどんとこいだ。次の授業の予習のために控室でテキストをめくっておく。国語、英語、社会。中学生ならこの三教科をみているから、それらを重ねておきながら。ほかにも資料集とかサブテキストとか、ほかの講師がいないおかげで満漢全席の真似事も。
「……」
塾長がなにやら視線をくれたが、実際にはなにか注意をするわけでもなく黙認といった様子。といっても現状、だれかに迷惑をかけているわけでもないし、ほかの講師が出勤すれば片付けるつもり。それくらいはむこうも承知してくれているということなのだろう。咳ばらいをひとつしたらすぐ、教室内の巡回に行ってきますと出ていった。顔を上げることなく返事をして、その日の会話はそれでおしまい。すっかり食事のお誘いもなくなったということは、なにかしら「お近づき」になることを諦めてくれたのだろうか。私が下戸だということもそれとなく伝えた過去もあるし、きっと誘う口実も見当たらないということなのだろう。もう少し多様なコミュニケーションを知ったらどうなのか。
なにも下戸だからといって居酒屋に行ってはいけないという法律もない。その日はとにかく居酒屋でノンアルコールの飲み物と小鉢量の食べ物を頼んでは周りの客を観察し、マチがいないだろうかと探した。店員にも最近こんな風貌のやつが来ませんでしたかと尋ね回った。いわゆる足を使った捜査というやつだ。三件目でわざわざお金を落とすことが馬鹿らしくなり、結局は聞きこみをするだけの人間へとなり果てたわけだが。メモでも取りながら話を聞ければそれっぽいところだが、あいにく値する情報を得ることができなかったのだから無理な話だ。こういうものですと見せられる身分証的なものがあればいいが、マイナンバーカードと保険証を掲げられたところでだれが一目置いてくれるだろうか。それでもどこの店員さんだって、足を止めていろいろと思いだそうとはしてくれた。けれど成果と呼べるものはなにもなく、ただいたずらにカレンダーのひと枠を消費するだけだった。
「先生、なんか痩せた?」
トモエちゃんは心配そうに私の顔をのぞきこむ。ぼんやりとしていたと頬を軽く叩き、彼女の単語テストへと注目を移す。
「あーちょっと痩せたかも。……おっけい、今日はよくできたね」
「どっちかっていうとやつれたっていう風に見えるんだけど……」
「見えるだけだよ。平気。もとからちょい重たかったし」
お腹を摘んでみようかな。痛いだけだからやめておくが……。前かがみになれば勝手に弛みはできるから、姿勢の悪い私は案外贅肉の変化には疎かったりする。体重計にも乗ったり乗らなかったりの日々だ。
「そうかな……それにこのあいださ……」
ああ……。そういえばこの子には目撃されてしまったんだなと申しわけなくなる。あの取り乱しかたは子供の目に入れるべきじゃなかった。生徒とか関係なく、ひとりの大人として。
「い、いやーごめんね。ちょっと昔いろいろあった人とかち合っちゃってさ。ついね、ごめんね」
もううしろ手で髪を掻くしかない。誤魔化せることではなかったけれど、とりあえず誤魔化そうとしているのでそれに倣ってくれないだろうかという、ひとつの提案じみた態度。彼女がそういった心を読んでくれるからこそできるのだ。デリカシーとか思いやりとか同情とか、機械的ではない反応を示す社会的存在には、きっと通用すると信じている。
「いえ……なんだか私もお邪魔してしまったというか、よけいなことをしちゃったと思うので……すみません」
「いや、トモエちゃんは完璧に悪くないから安心して」
そこまで考えてくれなくていいんだ。すまん。情けなくなってしまうよ、私。この子も優しく育っているのだなと思いながら、こんな形で生徒の優しさに触れることのやるせなさも噛みしめた。話題を変えよう。もうそのほうがいい。
「アルバムの予約はできたの?」
ほら、好物だお食べ。とばかりにボカロの話。なんて子供っぽい釣りかただろうか。ゲオって本当に特典があったの? そこまで聞いたらちょっと雑談が広がりすぎるだろうか。
「あ、えっと、はい。できました」
目が泳いでいる。突然の転換に驚いているように、あちこちへと眼球を向けては回す。いくらなんでも唐突すぎたか。でも多少強引でもしかたがないのだ。なんてったって、ミチルさんと彼の関係についてなんて話せるわけもないし、考えることだって苦痛なのだ。
その日も帰り道を逸れ、登戸の飲み屋街を歩いた。かたっぱしから店にマチがいないだろうか、目撃した人間はいないかと調べていったが、空振りに終わるばかりでなんの進歩もない。私が寄りづらいと思われていそうな、若干のいかがわしさが漂う飲食店にもお邪魔したが、結果はほかと変わることはなかった。日常生活ではまず目撃しないようなきらびやかなドレスとすれ違うと、ダッフルコートにスキニージーンズなくたびれ女は、居場所なんてないのかもなと笑いが出てきもした。この街にいるのかも分からないマチを偶然見つける。坂の上の雲を掴むよりは荒唐ではないにせよ、現実的でないことに多言を要することもない。痺れるような痛みがいよいよ足に溜まってくると、やるせなさが胸からせり上がってくる。あいつがいなくならなければこんなことはしなくて済んだのだ。なんだってあのバカの遊びに付き合っているんだ。銃で人を殺す? あいつが暴挙に出たところで逮捕されるのが私になるというわけでもない。だれを狙っているのかも分からないのにビクビクするゆえんもない。関係ないじゃないか、そもそもあいつは塾だって辞めたのだ。戻ってきたところでどうなるというのだ。私が二年間も世界史の勉強をちまちまと、ほかの教科の合間を縫ってきて、ようやくまともに解説ができるところまで来た。その蓄積をマチのお気楽は全部水泡に帰してしまったじゃないか。
ふざけんなよ。私はマチのおもちゃじゃないぞ。
じゃあなんでここまで探してきたのか。シンプルだ。あいつの面影にどことなく感じていた〝影〟が心配だったのだ。なにか苦しい思いを抱えていたり、私には言えない難題と立ちむかっていたり、そういう黒い部分を期待していた。けれど、だれに聞いたってそんなものは浮かんでこなかった。ダンチというこの街を白に戻す黒さえ、あいつのことをただの茶飲み友達だなんて表現した。反社の書斎を図書室代わりにするようなやつだ。きっと刑務所でもうまいことやるんだろう。だったらなにか手を貸してやる必要もないじゃないか。
「あーあ」
最低だな私。そうか、私はマチの奥底にある非日常を期待していた。今だってあいつがなにかしでかして、恋人が空いた穴を埋めてくれるんじゃないだろうかとどこかで思っていた。チカさんを助けた一連の二週間は、それはもう心が躍ったものだ。マチを性的に便利な相手にしていた妻子持ちの男と変わらないじゃないか。日々あいつの相手をする。その見返りをマチに求めていた心が、どうしようもなく醜い。
「……重い」
職場からずっと持っていたカバンがあまりにも肩に食いこむような気がした。中身のない私を押しつぶすような重量で、できうるならそのまま世界から消えてしまいたかった。もう帰ろう。爛として漂う街灯の海は、帰り道まで足元を照らしてくれる。明滅する切れかけのそれも目に映った。すっかり冷えこんだ身体は、機械のように私を運び家の玄関をくぐる。スマートフォンの明かりだけが光る我が家に、塾長からのLINEが飛びこむ。
『夜分遅くに失礼いたします。土曜日のお昼にひとコマだけ授業を入れさせてもらってもいいですか? 急遽で申しわけないんですが』
二八日。マチがだれかを殺す日。
『はい。大丈夫です』
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