あの人と同じハサミ
「へえ、お父さんを待っていた可能性があると、それは泣けるくない?」
「泣けるくなくない」
「泣けるくなくないって言うほうが泣けるくなくなくないんだ~。しっかし先生も、ほとんど他人のために泣いてあげるだなんて、律義なものだね」
視界を邪魔する涙を瞬時に拭い、零れることだけは防いだ。
「うるさい、髪の毛が目に入ったのよ」
手に当たる前髪が鬱陶しくて、邪魔くさいと文句を垂れる。人の不幸をクヌギに群がるカブトムシのように舐めるマチなんて知るもんか。風にも吹かれてしまったし、落ち着くためにも手櫛で髪を弄っていく。意味もないのに後頭部まで、誰に見せるわけでもないのに時間をかけて。
「そんなに髪が気になるんなら切ってあげようか? ちょうどオープンエアだし、構わないでしょ?」
近づいてくるパーカー、それに合わせて後ずさる。
「別にいいわよ、放っておいて」
ソーシャルディスタンスとばかりに手を掲げ、俯くのをやめる。そこにはすでに武器を握ったやつの姿があった。まっすぐにこちらを見据えている目は、いつものように笑ってなどいない。冷たい、冬池の水面のような瞳だった。
「知らないよ」
ハサミだ。両目に飛び込んできそうな刃を突き立てる、黒くて白いマチ。叫ぶ間もなく身をひるがえし、倒れ込んでふたつの刃物の間、死の空間から逃げおおせた。クロノスタシスのせいで、眼前の土景色がやけに永遠じみていく。なにが起きたのかを理解したのは、砂を握り立ち上がってからだった。
「あんた……なにしてんの……?」
やつが持っていたハサミは、去年まで私の、私たちの部屋にあったそのものだ。ルミエールタイプ1311、ハンドルの形がわずかに違うけれど、間違いなく同じ種類のハサミだ。心臓が跳ねる。もうあの部屋には戻ってこない、鈍く輝く銀色だ。
「結構お金貯めて買ったんだ。何回分のお給料かな、まるっと四回分くらい? ねえどう? あの人と同じハサミだし、切られてみる気はない?」
「そんなわけ……」
「ねえ先生、だったらぼくの前で弱ってちゃだめだよ? コロッといっちゃうんだからさ」
ハサミを空切りさせる。子供にはすぎた玩具だと、彼なら嘆くに違いない。多摩川の土手に見合う気品ではないとも。あるべき場所にない道具とは、どれだけ高価でも権威は著しく失墜し、汚れてもいないのに荒んでいく。部屋の下駄箱で眠っている、ナイキエアマックス200のように。
「気をつけたほうがいいよ、ぼくはいつか先生を、自分のものにしたいんだ」
小田急列車が橋を渡る。轟音がふたりの耳を塞いでしまって、コミュニケーションは困難になった。大地を揺らす人々を乗せた鉄のワゴンは、いつだってこの場所に眠れないほどの騒ぎを引き起こすのだ。そのたもとで溺死体が打ち上ろうが、少女がライト方向へヒットを放とうがどうでもいいということらしい。そんなことよりも、回すべき世界があるのだといわんばかり。街の血管は東京を心臓に、そのほかの臓器と人のやり取りを欠かさない。多摩川という境界線は、まさにその最前線だ。世界と世界が交わる、やかましくてかなわない場所。
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