じろりと睨んだ議論なふたり
そう、そんなこと話させてしまってごめんなさい。ありがとうね。棒のようになった声で別れを告げる。チームメイトの輪に戻っていくふたりの背中を見守ることもないまま、靴底に土をこびりつけた私は階段を上る。サナちゃんのこと、カナちゃんのこと、知るべきだったのだろうかと疑念を抱きながらヒグラシがとまる木まで戻るのだ。カナカナ、彼女はそう呼ばれていた。叶カナからとられたあだ名なのだろう。それは同時にヒグラシの別名そのものでもあった。彼女がこの場を動こうとしなかった理由の一端、むしろそのすべてなのだろうか。ため息を吐きながら見上げる。巨大なクヌギ。
「先生、こんにちは」
こちら側、グラウンド側から見るのは初めてだなと思ったのもつかの間、目の前の景色に目を疑った。
「見てよこれ、すごくない?」
パーカーのマチはクヌギに寄りかかり、ニヤつきながら私を見下ろしている。神出鬼没に私のもとに現れることにはなんとも思わない。が、そこで指さされている一点こそ、私が注目するべき視覚情報なのだ。
「これって……空洞?」
ヒグラシがとまる木は背後から、つまりはいつも私たちが見ていた土手側からでは一般的な木に見えていた。しかし、グラウンド側から見れば印象はがらりと変わる。そう、木の根元には中身がくり貫かれてしまったかのような空間が、口を大きく広げて私を見ているのだった。その穴に入ったが最後、隙間が閉じられて一生出られなくなってしまうという想像をさせるに十分な威圧感を兼ね備えていた。
「樹洞っていうらしいよ。結構な木にみられる現象なんだってさ、鳥なんかが巣にしたりするあれね。古傷の修復なんかでよくできるらしいけど……。ここまで大きいのだと、鳥じゃないのが住んだり、あるいは夜を明かしたりするかもね」
とぼけたように笑っているマチのもとへ足早に駆け上がる。降りるときよりも速く、まっすぐに。そのままパーカーの襟を掴んだ。力任せにやつの身体を引き寄せてやる。
「なんか知っているんでしょ、話して」
「なんか怒ってるっぽいけど、放して」
またもや対句みたいな会話だ。日が沈む多摩川で、じろりと睨んだ議論なふたり。
「そもそも先生が人の話を聞かないのがいけないんじゃん」
「あんたがあの朝にしたかったのって、この樹洞とやらの話?」
「半分正解。あっち側とこっち側じゃ、ものの見えかたって変わるよねってね」
いけないと手を離す。これ以上煽られたらぶん殴ってしまいそうだから。そしてマチの目はそうなっても構わないと告げていて、どこにも恐怖が見当たらない。だれも私に冷や水をかけてくれないのなら、自分で感情を制御するしかないのだ。
「でもね、そもそもちゃんと問題文を読めてないよ先生。なにもぼくの話を聞くとは言ってない。先生がちゃんと話を聞くべきだったのは、あの女の子のものだよ」
「どういう意味よ?」
そんなの一番、私が分かっている。後から人づてに聞いてばっかりで、本人にはなにも示すことができなかった。理解者になったつもりで、なんにも見られていなかった。全部知っているんだ。
「じゃあ聞くけど、ヒグラシってなに?」
「……は?」
「あの子と先生がどんな会話をしていたのかは分からないけど、彼女、一度でもセミの話をしたかな?」
「どういう……」
言ってないなんてことあるか? ヒグラシというセミがとまる木だと言われているから、私に見張りを頼んだのだ、間違いないはずだ。ちゃんとこの耳で……。
『そうです、私も噂でしか知らないんですけど、ここに来るらしいんです。その、ヒグラシが』
『ふとした瞬間に飛んできそうなものだけれどね』
ふふっと笑ったサナちゃん。ギャグでもないし、別に笑わせる気もなかったのだが……。
『そのヒグラシがいそうな場所って、ひと気のない生田緑地とかですか?』
『ヒグラシね……なんか物悲しい気持ちになるよね、あれ』
『そうですね、私も悲しいし、なんだか心がざわつく気がします』
肩をすくめ、先生、認めなよと笑うマチ。人の心はギリギリで残っているらしく、バカにするような表情ではなく同情がこもったそれ。語るに落ちた犯人に自白を促す刑事のようだった。
「ここはね、その日暮らしとかホームレスなんかが泊まりにくる木、なんだよ。一部のホームレス狩りとかをする連中から聞いたんだ。彼女がそれを知っていたってことは、なにか吹き込まれたんだろうね」
「でも、なんだってそんなのを中学生が……」
言っていて気がつく。
「それはぼくには分からない話だよ。先生ならどうなの、心当たりぐらいはあるんじゃない?」
彼女はずっと木の下を見ていた。誰かが寄りついてくるのを監視するように。私がセミを探し見上げているのとは正反対。見ていたのは野球チームの動向、あるいは……。
「このあたりに彼女の父親にあたる人が浮浪している確証もない。彼女が目的としていたのは……」
ここからは全部推測にしかならない。私がそれを広げる意味とはいったいどこにあるのだろうか。彼女は妹を見守っていたという事実だけで、もう十分ではないだろうか。あるいは、まだ生きているかも分からない父親を待ち続けていたとするなら、そんな悲劇もないだろう。私はそんな話が真実だとは認めない。最後まで彼女のリストカットの理由についても分からなかったのだと、そういうことにしておくしかないのだ。私は単に、通りがかった彼女にとってどうでもいい大人のひとりなのだから。
歯を食いしばる。サナちゃんがボールを探している少女に、あそこまで的確に場所を指定できたことの説明を、なにか濁す自分自身を抑えつけようとして。
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