ベイスターズ帽

 ややあったため息の後、ベンチ側で見守っていた両チームの父兄は拍手で両チームを讃えた。私も手を叩き、悔しさを噛みしめるふたりの少女の一礼を慈しんだ。それからは帰る父兄もあれば、片づけに奔走する選手たちもある。試合が終わればノーサイドというのは、別にラグビーだけの話ではない。日が暮れていく九月末、長袖と半袖が混じった別々のユニフォームがトンボをかけてはグラウンドの手入れをしていく。陸部だったころ、練習終わりの解放感や充足感を味わうのが好きだったな。


 グラウンドの端、私がいる階段のすぐ真下ではゴミやらボールやらが残っていないかの点検に、あの女の子ふたり組が来ている。おそらくはまだチームのなかでは新参者であろうポニーテールちゃんも、今や急ごしらえの赤帽子ではなく、立派にみんなと同じ青色のものを被っていて……。


 さっきまではバッターボックスでヘルメットを被っていた姿しか見ていなかったからか、その帽子をまじまじと見たのはこのときが初めてだった。信じられないのも無理はない。と自分では思う。彼女が被っているのはほかのチームメイトと同じものではなく、私が見慣れた、すぐ目の前で見ていたツバの欠けたあのベイスターズ帽だったのだ。


「あのっ、その帽子」


 反射的に階段を駆け下りて話しかける。グラウンドに足を踏み入れたのは初めてだ。もうなりふり構っていられない。どうしてあなたがサナちゃんの物を持っているのか、是が非でも教えてもらわないといけないのだ。


「はい? ああ、お姉ちゃんといつもいっしょにいた……」


「お姉ちゃん? サナちゃんが?」


 振り向いたポニーテールは私の顔を見るや、話しかけられることに合点がいったような顔をしている。頬には高価な絆創膏が貼られていて、さっきの死球の痛みを想像させた。ショートカットちゃんはといえば、とりあえずそばで話だけは聞いておきますよという顔で、彼女の隣に佇んでいる。


「ええ、私は叶カナ、お姉ちゃん……サナの妹です……といっても苗字は違うんですけど」


「サナちゃんはこの間引っ越したけれど、あなたはそうではない。ということは住んでいる家も……」


「なんなら家族も違いますね、なんだかお恥ずかしい話ですけど」


 お姉ちゃんに似て落ち着いた子だ。困ったように、それでもしかたないかというような笑いかたは本当によく似ている。横のお友達、と思しき子がよっぽど心配そうに見守っているのだが、すまないがまだ聞きたいことがあるのだ。


「デリケートなことに突っ込んでしまって申し訳ないんだけど、私はサナちゃんがこの街を去ったことも最近知ったばかりだし、家族関係のことに関してはまったく知らないの。彼女とも連絡がつかなくて……」


「私も簡単に連絡がとれるわけでもないんですけど……お姉ちゃんが街を去る直前に、このグラウンドで話しかけてくれたんです。まさかお姉ちゃんがこの街に来ていただなんて知らなかったので、すっごく驚きました。話しかけるのが怖くて、こんな土壇場でごめんねって……」


 おそらくはそのとき、彼女たちの間で帽子のやり取りがあったのだろう。サナちゃんはずっとここで妹を見守っていたのか。妹に会う機会なんて、転居続きの彼女にとって千載一遇のチャンスだったのだろう。しかしどうやって、このチームにカナちゃんが所属していると気がつけたのだ?


「もう行こう。カナカナのお母さんも待っているよ」


「ああ、うん……」


 これでいいでしょうかと許可を求めるような目線。少し痛む胸もあるが、好奇心以上の義務感によって、私の口から再度にして最後の疑問が投じられる。デッドボールにならないだろうかと気にかけることもない。ただひたすら、全力のボールを投げるのだ。


「もうひとつだけ! カナちゃんにもお母さんがいるの? ってことは……」


 明らかにムッとしたのはショートカットの彼女。ごめんなさい、冴えたやりかたじゃないけれど、口に出して聞くことこそたったひとつの方法なの。カナちゃんは姉がずっと被っていたベイスターズ帽の「Y」の文字を掻く。俯きがちに、声を小さくしながらだ。やっと思いだした。これは恋人と見ていたヤクルト対横浜戦で選手たちが身に着けていたものと同じ、ホームではなくビジター専用の帽子だ。


「はい、お姉ちゃんのそばに血の繋がった親族はいません。本当はお父さんとお母さん、それぞれに引き取られたんですけれど、お父さん側は再婚のあとまた離婚して、お姉ちゃんは血の繋がりのない母親とふたりで暮らしています。詳しくは知りませんけど、私たちと血縁関係にあるお父さんはどこに行ってしまったのかも分からないそうです。ホームレスみたいになっちゃったらしいって話は聞きましたけど……」

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