見張っていただかなくても大丈夫です

 嫌だ嫌だと思いながら、それでも恋人が着ていたパーカーなりシャツを枕元に置いておかないと眠れなくなった。まさしくライナスの毛布。寝床を温めてくれる黒いシャツに巻かれていた朝、何時だったかは電話の最中に確かめることとなった。


『ねえ先生、すっごいよ。ちょっと来てみなって!』


 寝ぼけ眼でスマホを開き、飛び込んできた声にうんざり。むこうは起きてからしばらくたった頃か、あるいは寝ないでセックスしていてハイになったのか、いささか現在の私が対処するには手ごわいコウモリが超音波モーニングコールだ。


「うるさいおやすみ」


『えー! ねえ多摩川、登戸の渡し跡上流! 最近先生がずっと見張っている木まで来てよ!』


 そこで画面を見て、朝の五時半という数字にめまいを覚える。『めまい』のスコティは高所に、私は早朝という時刻に、それぞれふらっときてしまうのだからしかたがない。克服しようにも朝の五時になにかをしなくてはいけないというのなら、それは朝に対応できない私ではなく、非人道的時刻に行動を促す予定がいけないのだ。


「なにセミでもいたの?」


『嫌、そうじゃなくてさ』


「そうじゃないならいい」


 ブツっと切った。二度寝だそうしよう。


 連日外にいると、それだけでどこか体力を消耗していくらしい。休日くらいは惰眠を貪りたくなるのが人というものだ。昔読んだ小説の登場人物が、自分が最高評議会議長になった暁には、朝の二度寝を邪魔するものに重罪を課すという、文字通り寝言を言っていた気がする。というわけでマチは残念ながら一生刑務所から出てこられないだろう。その勢いで網走監獄にでもぶち込まれて、腐った根性を叩きのめされればいいのだ。これからの時期、北海道はずいぶんと寒かろう。いい気味だ。


 これは私だけの癖なのかは分からないが、二度寝の際にはうつ伏せで寝ていることが多く、そのまま口から涎がはみ出してしまってはシーツなり枕なりを汚してしまう。この日も例外ではなく、ちょうどいいやと洗濯機を回すところから一日は始まった。ひとり暮らしをしていれば、毎日洗濯なんて馬鹿らしくてやっていられない。一週間に二度くらい回せばいいのだ、その代わりしっかりアイロンをかけてやる。文句を言うなよ綿七五パーセントたち。ベーコンエッグとトーストを燃料に、よく晴れた空に布を干す。大がかりに生活を墓場に表明。寝室とリビングだけの部屋、たったこれだけなのに掃除の手は及ばなく、彼がプレゼントしてくれたダイソンの使えない掃除機を振り回す。いつの間に抜けたんだろうかという量の髪の毛を平らげて、壊滅的に出しにくい掃除機の排せつ物をゴミ箱へと掻きだした。おそらくはマチが意気揚々とこの部屋にやってくるだろう。今はむしろ朝帰りのまま眠っている頃だろうから、午後くらいに来ると予測して、それまでにやるべきことは済ませておくのだ。やつの襲来を夕方には振り切って、今日も今日とてヒグラシがとまる木の下へ。それまではネットフリックスで映画でも観ていよう。昼間だからノートパソコンに繋いだスピーカーで。窓も開いているが、文句を言われたこともないしいいだろう。画面はすっかり岡本喜八の『日本のいちばん長い日』だ。アメリカの映画にタイトルの元ネタがあるらしいが、そっちのほうは観たことがない。重大な決断をいつまでも下すことができない終戦間際の日本政府が、玉音放送の日時について悠長に話している間にも、特攻隊で死んでいった人々がいるのだと、分かりやすすぎるほどのモンタージュが笑いを誘う。もちろんメタ的な笑いだ。ほぼ全編にわたり、傑作映画だと唸った。二時間以上もあるしマチも途中で参加するだろうと窓やドアを警戒しながらだったのに、「最後の一二時間」というシークエンスからは、そのことすら忘れていた。


 そして結論からいえば、マチは私の部屋を訪れなかった。あげくの果て、私は映画が終わってからスマートフォン内アプリの通知を確認して、すぐに家を飛び出しては長距離走を余儀なくされてしまった。朝早くにはまともに画面も見ないでロックを解除してしまっていたが、そこにはひとつ、思いもよらないメッセージが表示されていたようなのだ。


『今までありがとうございました。もう今日以降は、あの木を見張っていただかなくても大丈夫です』


 サナちゃんから唐突に告げられた解雇通知にか、それとも運動不足の身体の悲鳴としてか、心臓はハッキリ分かるくらいに内側から私を叩く。登戸まで駆け抜けて、一気に土手まで上がりきる。季節がらもなく汗だくの顔面で、まともな装いもなしで、大きな大きなクヌギの木のそばまで。いつも私たちが座っていたゴツゴツとした階段には誰もいない。サナちゃんはひとりでヒグラシを見つけるつもりなのだろうか。別になんでもないことなのに、ひたすらに危なっかしく思えてならないのはなぜだろう。サナちゃん、それってどういうことなの? ヒグラシを見つけられたってこと? 昨夜遅くに送られていたメッセージに私が問うても、既読がつくこともなく、ひたすらひとり言としての疑問符が並ぶばかり。次の日も、その次の日も、彼女から言葉が返ってくることはなかった。意固地になって彼女が現れるんじゃないかと土手に通い続けても、いよいよもって彼女は帰ってくる気はないらしかった。

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