根元
「ねえ、ヒグラシを待つだけじゃなくて、探しにいってみない?」
提案は次の休日、私たちが出会って二週間後の土曜日に投げかけた。ジーンズに緩いカットシャツといういで立ちのサナちゃんは、グラウンドで展開されている少年野球から視線を移動させる。欠けたベイスターズ帽も相変わらず、奇麗さっぱり断ち切られたポリエチレンが露出している。
「探しにいくって……」
「いやね、ここってヒグラシがとまる木っていわれている……んでしょ? でもさ、こんなに待っているのに来ないってことは、やっぱり探すしかないんだと思うんだよね。いそうな場所を見繕って歩き回るの。悪くないんじゃない?」
「そのヒグラシがいそうな場所って、ひと気のない生田緑地とかですか?」
「うん、まさにあそことかはまだそれなりに残っていると思うし……」
「あんまり行ったことないですけど、東屋とかもあった気がしますし……悪くないのかもしれませんね」
「そうそう、休憩とかもしながらさ。いいんじゃない?」
彼女はずっとヒグラシを見つけたい、と言い続けている。だったらこの木に固執する必要はないはずだ。さあ、私の踏み絵的な質問を、彼女はどう処理するだろうか。
「う~ん、でも……」
でも? とこちらが詰めよれば、なにかしらリアクションを得られるかもしれない。ただ、これは会話であって尋問ではない。それに、そこまで年下の女の子にする気にはなれなかった。この意味不明なヒグラシ想望の裏に、おそらくは隠れているであろう心理に到達するためには、強引な力技では突破できない壁がある。
「私は、ここで待ってたいです」
「……どうして?」
「どうしてって……」
彼女が逃げるようならこちらも退こう。同じことの繰り返しのように見えて、繰り返すこと自体が彼女の心を揺れ動かすのだ。初日にこの木を監視する理由について聞いたことと比べ、今日の再質問には別のニュアンスが含まれている、私はあなたの言う表面的なことだけではなく、もっと奥側にある考えについて知る準備ができているんだよ。そう示すことができるのだ。だから話してくれなくてもいい、話してくれればもっといい。一番ダメなのは、私が彼女にとって「うるさい大人」にならないこと。心の壁を崩す算段は、そこから練っていくしかない。
「すいませーん」
ん? と顔を上げる。高く強い、女の子の声だ。青い野球帽を被った、一見すると男の子と見間違えてしまいそうな、バッチリ日焼けのショートカットな子。あのポニーテールの子だけではなく、彼女みたいな子も同じ少年野球チームに所属しているということらしい。
「このあたりにボール飛んできませんでしたか?」
「へ? いや……たぶん飛んできてないと思うよ」
「あれおっかしーな……」
グラウンドでは守備練習としてのノックが行われている。その過程で土手のほうにボールが飛んでいってしまったのだろう。ポニーテールの赤帽ちゃんは三塁線に転がったボールに喰らいつき、なんとか一塁にツーバウンドながら送球している。
「根元」
ポツリと呟いたのはサナちゃんだ。指をさすのはクヌギの木。
「あそこ探してみて」
「は、はい」
戸惑いながらもショートカットちゃんはクヌギの麓を探った。こちらからだとちょうど隠れてしまう、グラウンド側に回り込んだところでかがみこみ、宝物を見つけたルパン三世のような笑顔でこちらを向いた。
「ありましたー!」
よかったねーと手を振って、お礼をしては練習の輪へと立ち去っていく彼女を見送った。私に倣い、横に座ったサナちゃんもおずおずと手を振っている。
「よく見てたね、全然気がつかなかった」
「……まあ、野球観るの楽しくなったので……」
強く風が吹く。土埃は立たなくても、会話に幕間をもたらすには十分な風が。電車の騒音と似たようなもので、外での会話は私たちの予期せぬ出来事で、簡単に細切れになる。さっきみたいな部外者の侵入だって、ある意味では醍醐味なのかもしれない。そこから続いた沈黙を破るように、サナちゃんは服の上から手首を触りながら言った。傷ついた、右手で切った左手の首。
「ルール、教えてくれてありがとうございました」
「そんな、ただ時間があっただけだから」
「私、この街に来られてよかった。そう思えただけ、よかったです」
それならなにより。彼女がよその土地から越してきたことは、今知ったということにしておこう。昔どんな所に住んでいて、どんな風に生きていたのか。これから知っていけばいいだけだ。明日だって同じようにここに来るのだ。だったら明日、今度はセミの話題でもどんどん振って、なんなら実家の近くでよく見たクマゼミについての話でも展開しよう。ヒグラシという核心に、そこから突っ込んでいけばいいのだ。
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