向ヶ丘遊園の便利屋

「いや~向ヶ丘遊園の便利屋には悩みが多いようで。よくカナカナゼミ一匹に、女の人生をそこまでつぎ込むものですな」


 ヒグラシの別名をおもしろそうに口ずさみ、相変わらず白黒の格好がお気に入りのパンダが茶化す。


「……珍しくちゃんと授業を受けていたわね、あんたは」


 トモエちゃんと反対側の席に座っていたマチは、今日自分が間違えた設問を一通り見直しきったのか、帰り支度をてきぱきと進めている。こいつは前にも後ろにも時間を守らないやつで、九〇分のコマが前後に一五分はズレてばかりだ。


「そりゃ東南アジア史が出ちゃったからね、模試でもここばかりはグラフが凹んでるもん。真剣にだってなるよ」


「それをどうしてヨーロッパでやってくれないのか……あとね、あんたはそもそも問題文をよく読んでいないことが多いのよ。世界史だけじゃなく」


「だって覚えてるもん、だったら歴史的小ネタを探りたくなるじゃん、どんどん知ろうとするじゃん、せっかちになるじゃん、問題を読み飛ばすわけだ」


「……好奇心は、まあ悪いことではないんだけどね」


 私も塾長から支給された山川の教科書と、生徒から預かったA4用紙の束を持って立ち上がる。確かにあまりにも細かいところまで記述されている『詳説 世界史研究』なる五七〇ページは、よりどり見どりの知識を私に与えてくれる。マチが覚えるべき知識は、ある程度受験に傾けるべき案件だ。それでもやつがモチベーションを繋いでいくために必要であるのなら、少しはこちらも譲歩しなくてはいけない。現場としての判断だ。それは同時に私の仕事量が増えていくことを意味するのだが。


「先生には負けるよ」


「は?」


「私が世界史を選択するって聞いてから、一気に知識を詰め込んだわけでしょ?」


 人員不足この上ない我が職場で、傍若無人にも高校世界史の面倒をみろと騒いだ去年のマチ。その時点で私が担当することが多かったやつだが、まさか私に白羽の矢が立つとは。自分には関係のない話だと、塾長の愚痴を聞き流していた時期が懐かしい。


「歴史が好きじゃないとできない芸当じゃん」


「まさか、暇なだけよ」


 後ろ手を振って、さっさと帰れと言いわたす。ほとんど同じ場所に帰るからといって、私たちが岐路をともにしたことはなかった。そもそもマチが、このあと素直に家まで帰っているのかだって知りはしない。べたべたいつだっていっしょ、そういう付き合いは苦手だし、マチも弁えているところは評価するべきだろう。


「お疲れ様です」


「どうも」


 講師陣のスペースで授業報告をこしらえながら、今日は川辺を見るだけ見て、さっさと家に帰ろうと決めた。まっすぐ帰らないのは、帰りたくないのは、誰だってそうなのかもしれない。


「久しぶりに飲みにいきたいなぁ」


「……まだそういう集まりは難しそうですよね」


 三〇代半ば、独身の塾長も同じようなことを思うらしい。クールビズが終わってしまうと嘆く彼は、マチの世界史についての話を振ってきては、一〇歳以上も年下の私に身も蓋もない扱いを受けていく。絶対に広がらないであろう話題を投げかけてきては、なるべく特定の人物との関わりを増やそうとする顔。苦手だ。弁えて欲しい。そう言えばいいのだろうか。口に出すことによってすべては好転するのだろうか。


「ヒグラシが来てくれるといいのにね」


 多摩川までたどり着いて、懐中電灯でクヌギを照らす。子供たちの姿はなく、ときおり土手を歩く人がいるくらい。秋晴れの平日は、夜の風をひっそりと運んで髪を撫ぜる。斜面に生えた大きな幹、そこから分かれていった枝の数々。涼し気に揺れるだけのこの生命は、東山魁夷が描いた絵のように淡くぼやける。目の焦点が妙に合わなくて、まぶたの上から少し触る。そんなときにも邪魔な髪、彼女の手首みたいに、切り裂かれてくれないものだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る