初音ミクのキーホルダー


 夏と秋の間というのは、室内と野外の気温変動が思ったようにいかない時期でもある。職場までのクライミングを済ませたあとだと特にそれを実感する。


「サナちゃん? ああ、会えたんだね」


「会えたんだねじゃなくて、人の居場所なんて簡単に教えちゃダメでしょ」


「だって……まあやむを得ない場合っていうものが、人生にはあるっていうじゃん?」


 初音ミクのキーホルダーがついたカバンにテキストを放り込んで、誤魔化すように頭を掻いた中学生。くら寿司では珍しく私服姿を拝むことになったが、今日はいつものように制服のまま塾に来ている。こちらも暑さをおしてスーツに着替えているわけだが、話しかたが特に変わるということもなく、半分演技としてのフレンドリーさは健在だ。


「なにがどうやむを得ないのかは知らないけれど、とにかくああいうのほかの人には絶対しちゃダメだよ。塾の先生とか関係なく、一般的な話としてね」


「もちろん分かっているんですけどね……」


 こちらが真面目に釘を刺しているのだと分かってはいるようで、たじろぐような笑顔を見せるトモエちゃん。こうやって表面的には取り繕っているほうが、心のなかでは気に留めてくれることが多い。だからこれ以上の追撃はしない。


「で、そのサナちゃんなんだけど。彼女は学校でどんな様子なの?」


「どんなっていうのは?」


 最終時刻のコマが終わったあとだと、なんだかんだ一〇分くらいは生徒と講師たちは雑談に興じることが多い。テストが終わった次の週なんかだと、どちらの側にも心の余裕があるからか、いくつかマスク姿の小集団が出来上がりつつある。学校の教室と大差のない面積しか持たないここで、同じく学校の教室と大差のない会話が展開されていくのだ。


「そうね……友達が多い少ないとか、勉強ができる、できないだとか……」


 本音を言えば、彼女がどうしてリストカットをしているのかということについての話を引き出したかった。ただトモエちゃんとサナちゃんがどれほどの仲なのか探りを入れないことには、本命を射抜くには時期尚早であろうと判断したわけだ。


「勉強は普通にできていると思うよ。今回のテストもだいたい八割くらいはとれてたし……私と違って」


「あなたは英語で未だに時制ミスするのがね……」


「ま、それはさておいて。友達とかは正直あんまり多いほうじゃないと思う……。って、これ本人に言っちゃだめだよ?」


「言わないよ」


 机に忘れ物が残っていないだろうかと確認をして、タイツで覆われた細い脚が立ち上がる。ボーカロイドの歌声が何百曲と閉じ込められたスマートフォンを操作して、気分にあった音楽を探していた。


「サナちゃんは、お家の都合でとっても転校が多い子なの。だからさ、最初から必要以上に人と関わろうとしていないように見えるんだ」


「……そっか……」


 ブルートゥースイヤホンを耳につけて、この話はおしまいと歩きだす彼女。すれ違いざまの「じゃあ、ありがとうございました」へこちらも声色を暖かに返す。それから数秒後には、やれやれとため息を吐きながら。これは思ったより厄介な話になるのかもしれないと考えた。あるいは自分にはどうしようもなくて、引き受けることもできない重大な事件なのかも。ただの予感にすぎないが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る