おそらくは叶わないのであろう愛

 さあ宵闇も過ぎた。ここからは大人の時間と洒落込もう。ランニングマンたちは無視をして、自分の世界を造るがよい。気温は日によるものの、過ごしやすさを体現するような数字を維持している。二〇度前半とはこんなにも素晴らしく、三六度の肌に馴染む。考えてみれば不思議なものだ。持ってきたカーディガンを羽織ったりすれば、ひとり占めにした県境の川は優しく私に微笑んでくれる。電車と乗用車、それら窓からの光を反射して。リュックサックから熱湯入りの魔法瓶、安物のカップにドリップコーヒーをセットする。手元を電池ランタンで照らしてしまえば、家とは違う開放的なくつろぎが、両手を広げて抱きしめてくれるのだ。


「美味いのだ」


 一息ついたら腹ごしらえ。ここでは火を使うことは許されていないから、魔法瓶に残ったお湯でスープ春雨を作ったり、あるいはがっつりカップラーメンを啜ったり。なかなか酷い絵面だ。四半世紀ほど生きた女が、河川敷でぽつんと、コンビニで二〇〇円と少しした程度のカップ麺を貪るだなんて。私が私を殺したくなる風景画。その間にも目線はクヌギへ。枝のあちらや幹のこちら。目を動かしたり、どうしようもなく暇になったら、ベッド脇に置いてあった懐中電灯で照らしたり。遠くから蝉の声が聞こえることもあったけれど、夏の去る速度は想像以上に速く、「八日目の蝉」の求婚は日ごと途絶えていった。あれだけいなくなって欲しいと願っていた、茹だるような暑さ。あの人がいなくなってから初めての夏。ひとりでいることは寂しいだなんて知っているから、特に悲しいことはなかった。取り立てるほど、悲しくなんてなかった。夏が去ってしまうことの寂寥と大差ない。ただなんとなく、秋の目覚めを目の当たりにしていると、胸と心の中間が痛むだけ。風に揺れた草花だって次の季節に戦々恐々としている。その傍らにあった菊の花束たち、駅前のお花屋さんから多摩川の水底へと居場所を移してしまったおじさんを見送った彼らは、すでに誰かに回収され姿を消してしまっていた。同じころに咲き誇っていた部屋のレインリリーだって、もう枯れてからしばらく。


「化けて出るかな」


 お墓のすぐそばに住んでいるということもあってか、少なくとも自分には霊能力的ななにがしが備わってはいないのだということが分かっている。溺死体が打ちあがっていたらしい場所のすぐそばであろうとも、おびただしい量の遺骨が埋まっている寺のお隣には敵うまい。数が違うのだ。「黄泉がえり」だなんて映画だけの話、結局現実の私たちは死者に対しては送ることしかできない「おくりびと」にすぎないのだ。もっとも、これは私にとってはというだけであって、本当に幽霊の世界と近くで繋がってしまうような人がいることも、おそらくは本当なのだろう。色彩の感覚が人によって異なるように、あるいは音階の区別を正確にできる人とできない人がいるように、私の恋人と未だ話せる人と、私のように一生話すことができない人に、人間というものは分類されているのだ。


「会いたいと口に出せば……ね」


 ヒグラシはやってこない。遠くでミンミンゼミが、叶わないのであろう愛を叫んでいた。悲しみの雄に行き遅れだなんて言葉を使うのはよくないだろう。彼はただ、生まれてくるのが遅すぎただけなのだ。生き残った最後の一頭になった恐竜のように、自分たちが世界から消えてなくなることを噛みしめている。会いたいとあんなに叫んでいるのに、助けや愛情、セックスはどうやったら手に入るのだろうか。自分がああいう目に遭ってしまうんじゃないかと思うと、出会いを求める気になんてなれない。愛なんて結局好んだ人間にだけ、自分を助ける権利を与えようとする意識。誰でもいいから私を温めてくれだなんて思えない。でも誰がいいだなんて、そんな対象がいるわけでもない。


 むこう岸の灯りがまだあるうちに、人が寝静まるような時間にならないくらいで撤収。今日も今日とて、残念ながらヒグラシはメロディーひとつを唱えることもない。こんなわけの分からないことに付き合うのも、どれくらいにするべきなのだろうか。恋人がいた部屋にいるより、どこか安らぐものもあるから、辞めるつもりもさらさらないのだが。


「逃げたいだけか?」


 疑問符は最後の抵抗で、反語であればいいなと望み薄な願いを星に。歩くと長い前髪がチラついて困る。さっさと切りたいなと思い続けているのに、なぜこうも頑なに切ろうとしないのか。セルフカットをするときに彼から借りていたハサミが部屋からなくなってしまったから、とりあえずはそれが理由のひとつ。ならどこかで切ってもらえばいいだけなのだ、自分で切ることができないのなら、他人に切ってもらうのが当たり前。髪を切りたい、ただそう言えばいいだけ。


 でも分からないのだ、誰にカットを求めればいいのか。私が、誰に髪を切ってもらいたいのか。髪を切る権利を、誰に与えたいのか。


 登戸から線路沿いを歩いていく。すれ違う酔っぱらいと仕事終わり、少しだけいた浮浪者。罠みたいな吐瀉物の跡を飛び越えて、コンバースはパタンとドラム、足音なんてすぐ消えた。

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