そうだといいなぁ

「この間、登戸駅でバスから降りてきた人がそのまま貧血を起こしたのか、フラフラと座りこんでしまったんです。さらにうしろからバスのお客たちがどんどん降りてくるんですけど、その人には見向きもしないか見るだけかという感じでした。私はというと、後者のようにただ見ていたんですけど、結局通りがかったほかの人が話しかけてあげてて……」


 無力への陶酔だろうかと身構えた私を置いて、少女は自分なりの物語を紡いでいった。表情はハッキリしないけれど、楽しそうではなかった。


「とても不思議だったのは、声をかけたあの人はどうしてそれができたんだろうかっていうことでした。だって座りこんでいた人はひと言だって『助けて』って言わなかったんですよ? なのにどうして手を差し伸べることができたんでしょうか。私だって、あの人が助けを請うてくれたのなら、ああやっていい人になれたのに……」


 こういう他人の考えを聞くこと自体はそれなりに好きだ。そうでないと人と向かいあうような仕事に就こうだなんて思わないのだろうが。そんなことを続けていって身につけたのは、その人が本気で、心からの言葉を発しているのだろうかどうか、という見分けかただ。そこに内容の稚拙さや誠実さは関係がなく、しぐさだってたいした問題にはならない。ひとつ声の調子でよく分かるものだ。真実に近い声を出すとき、人間はいつだって声にその香りを混ぜる。彼女のエピソードは、そのドラマを唄った声は、むせるほど本物の匂いがした。濃く、深く、井戸から汲まれた水のような匂い。


「だから私は、はっきりと待っているって口に出すようにしたんです。私が会いたいと言っていれば、きっといつか迎えに来てくれるんじゃないかと思うから」


 ヒグラシはいっこうに現れることはないまま、私と彼女の交信は暮れていく。陽が落ちるのも早くなったこの九月。空の変化は季節の変化。雲も神様がこねたような形から、風によって引き千切られては地平線の彼方へと沈んでいく。太陽はもう一度この多摩川を照らすだろうに、あの雲が私たちの頭上を飛び越えていく瞬間は、二度とやってくることはないのだろう。同じ空はもう来ない。同じ蝉は来年には鳴かないということと、少し似ているような気もする。


「来ないね」


「そうですね」


「ふとした瞬間に飛んできそうなものだけれどね」


 ふふっと笑ったサナちゃん。ギャグでもないし、別に笑わせる気もなかったのだが……。こっち気なんてお構いなし、相変わらず視線はやや低く、少年野球チームを見ながらだろうか、呟いた。


「そうだといいなぁ」

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