自分と彼女との自他境界線


 次の日から私のルーティーンは大か小か、とにかく変わった。個別指導の塾で文系科目を教えるという部分は変わらず、しかし夕方に解放されるシフトの日には急ぎ生田緑地を下って多摩川へ。バスを使うべき距離ではあるのだけれど、大学生のころからの癖で、節約のため歩くこととしているのだ。脚を動かすことは嫌いじゃないし、お金を払ってまで短縮したいほど時間に追われているわけでもない。そして河川敷にたどり着くと、学校を終えてからずっと木のそば、下のグラウンドへと降りていける階段に座っているサナちゃんの隣へ腰かける。


「こんばんは」


 サナちゃんはいつも太い木の根元か、やっているときにはグラウンドで行われている野球の模様を眺めているようだった。曜日によってグラウンドを使っているチームが違うようだったけれど、少なくともなにかしらの動きがあるだけ見るに飽きないものであることは確実だった。とはいっても、私が来るころにはすでに練習は終盤であることが基本で、硬式の球を使っているリトルリーグチームが暗くなったあともランニングなどのメニューをこなしている場面には出くわすことができた。


「ボールの違いとかあるんですか、イズミさんって野球詳しいんですね」


 恋人が東京ヤクルトスワローズのファンで、DAZNの配信をよく見せてきた。最初はルールもチンプンカンプンだったのに、イエズス会から派遣されてきたかのような彼の熱意によって、脳内に野球ルールの居留地を認めざるを得なくなったのは一昨年のことだ。インフィールドフライもフィルダースチョイスだって理解できた私は、キャッチャーをやっている少年が内野ゴロの際なぜ一塁方向へ走っていくのかという理由について解説をしてみせ、中学生女子を唸らせたのはあれからちょうど一週間が経った土曜日。平凡なセカンドゴロを打ったのが、少年たちのなかに混ざった女の子であるということにも気がついた日だ。後ろ手に髪を結び、オレンジ色のシュシュも重ねているから分かった。この間みた、みんなとは違う色、赤色の帽子を被っているのもその子のよう。まだ正式なそれが手に入らないのか、依然として赤で眩しさを遮断しているようだ。小学高学年であろう彼らのなかでは、発育の早い女の子は背が高い部類の子であるらしかった。ただ野球自体には慣れていないのか、スイングの格好もボールに対する捕球もおぼつかない場面が多かったが。


「私はスポーツって苦手なんですよね」


 この土手で話されたのは他愛もない話。というとかわいそうだけれど、まあ私にしてみれば中学生の日常というものはほとんどパターン認識ができるようになってしまっていて、実際に私が中高生だったころよりもずっと詳しく彼らの実情について把握してしまっている。それは仕事のうえでは便利なことこの上ないのだが、こういったたまたま喋ることになってしまった中学生と話す場合には、自分と彼女との自他境界線があまりにもはっきりしているように感じられ、どこか悪気を覚えてしまうのだ。スクールカースト、なんてつまらない言葉は使わないけれど、それでも人間が群れとして生きていくなかでそれぞれが役割として自然に演じてしまう影について、疑念もないまま受け入れているさまを見ると、どうにも自分とは違う生き物に見えてしまってしかたがない。いや、本当はそんなものは演技にすぎなくて、自分を象らなくてはいけないからこその方便なのだと、気がついているのかもしれないが。そうだとしても、あくまで自己と社会との間で揺れ動く自我について話さない以上、私とは根本的に魂が違う場所にあるかのよう。あまり考えたくはないけれど。


 彼女は特に部活動には所属していないらしく、つつましく義務教育課程をこなしていく一般的な中学生だった。話に出てくる内容はクラスメイトのこと、先生のこと、道ばたで出会ったアクシデントのこと。どれもこれもが超越的ではなく、それでいて完膚なきまでに個性が溢れている、彼女だけの人生の一端。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る