ヒグラシがとまる木

 線路からしばらく歩いたところでサナちゃんは立ち止まった。多摩水道橋と小田急線の間、大きなクヌギが川のほうへ頭を傾けるように立っている。相当長い間生きているのか、その幹は私の肩幅なんか優に超え、圧倒的な存在感で多摩川の水位を監視しているようだ。植物のことは詳しくないけれど、ひょっとしたら戦後まもなくまであったという登戸の渡し船も、このくらいの年齢を重ねた木なら知っているかもしれない。


「……これ?」


「そうです。私も噂でしか知らないんですけど、ここに来るらしいんです。その、ヒグラシが」


「で、私になにをお願いしたいという感じなのかな?」


 まさに橙、日を暮すものが現れるくらいのタイミングだ。青々とした大木には、特に鳴き声を出す虫はとりついていないようだったが。きっと毎日のように現れるとかそういうことではなく、比較的出やすい、ということでしかないのだろうけれど。


「単純です、でもだからこそ難しいかなと思っています」


 クヌギを見上げていた私とは対照的に、サナちゃんはじっと木の根元を見つめている。土手の下には野球用のグラウンドが広がっていて、子供たちは片付けた野球道具をどこかへ運搬していくようだ。やんややんやとはしゃぐ声。きっと小学生たちだろう。ひとりだけほかの子たちとは違う色の帽子を被っていて、なんだか目立つ。


「イズミさんには、夜になってからここにヒグラシが来るかどうか、ただ見ていて欲しいんです。そしてもし現れたら私に電話をしてください。内容としてはこれだけです」


「えっと……そもそもな話を聞いてもいいかな。逆質問になっちゃうけど」


「はい、大丈夫です」


 気をつけ、礼。少年野球チームは大地へ感謝を叫んだ。


「なんでヒグラシなんかを……気にかけるのかっていうか……あなたにとってどんな利益があるのかなって。気になるじゃない。やっぱりほら、ヒグラシが特定の木にやってくるかどうかを検証している中学生女子って、よっぽどのことがない限りいないと思うから……」


 聞いてもいいのだろうかと思いはした。別にセミの存在によって巨悪やら犯罪やらが動くこともないだろうし、ましてやそこいらの女子中学生が知っちゃいけない情報とも思えない。だから訳を言いたくないのであれば、そのままにしておいてもいい。それでも、どうにもふんわりとした物言いに気がかりを感じたということ自体は、彼女にも知らせておくべきだ。私の不信感を知ってなお隠すというのであれば、それは相応の理由があってのことなのだろうから。


「えっと……それはなんと言うべきか……変だなと思われるのは承知しているんですけど……。とにかくいま会っておかないといけないんです。でないともう二度とこんな機会ないっていうか……」


 口を濁しているところを見ると、なにかしら事情かあるいは心情の抵抗があるのだろう。虫が好きな子なんて最近珍しいから、きっとそれで嫌な思いをしたことがあるのかもしれないし。


「分かった、そこは一回置いておくけど、ヒグラシが来るのを待つっていうのは私がやらなきゃいけない理由ってあるの?」


「もちろんイズミさんじゃないと絶対にできないというわけではないんですが……私が見ていようにも、やっぱり日が沈んでからしばらくすると帰ってこいって言われちゃうんです……」


 ああそうか、考えてみれば当然だ。


「だけどそれじゃダメなんです、夜まで見張っていないと確かなことは分からない。ああいうのは夜になってから移動することも多いと聞きましたので……」


 この間だって仕事終わりに生田緑地に行けば、多種多様のセミが時雨を降らしての大合唱を奏でていた。最近は秋の種族に勢力を取られがちになっているから、メインボーカルというよりはコーラスを担当しているのだけれど。


「……分かった、ただし私にも仕事があるから夜になった瞬間に張りついていられるわけじゃないし、次の日のこともあるからいられても一、二時間が限界だったりもする。なにより何日間続けられるかの保証はできないんだけど、それでもいいの?」


 条件交渉に入った私を見て驚いた様子の野球帽。Yのマークが斜めにずれる。


「え、やってくれるんですか?」


「ん? やってってことじゃないの?」


 対句みたいな会話だ。日が沈む多摩川へ、ぽつんと浮かんだ疑問なふたり。


「あ、いや……」


「アイヤー?」


 ブルースリーか。


「まさか引き受けてくれるとは思わなかったので……本当にいいんですか?」


「……いや、別に私はここで座っているだけだからね? 本読んでたりとかしてお目当てに気がつかなかったりするかもしれないし、なんの期待もしちゃだめだよ?」


 そういうことじゃないんです! バシッとディスタンスを詰めては、私の手を掴んだサナちゃん。間近で見ると欠けたツバは鋭い刃物で切ったようだった。


「協力してくれること自体が嬉しいんです! ありがとうございます! それだけでとっても嬉しい!」


 飛び上がらんばかりの挙動だ。私の腕が天空へ放られてしまいそう。そうすればもう二度と下手糞な絵を描くこともなくなってしまうだろう。それでもいっこうに構わないのだが、ムギちゃんママのお店に行くことがなくなってしまうのは悲しいな。


「……まあ、それはなによりで」


 ともかくとして、ここまで喜んでくれているというのは悪い気がするものでもない。実際のところは面倒な約束をしてしまったと思うわけだが、この笑顔が見られただけでもよしとしよう。仕事以外にやるべきことがあるというのは、人生にとっては得でしかないわけだし。


「じゃあ、前渡しということでお礼のお金を……」


「いや大丈夫、流石に中学生からは貰えないって」


「いえそんな、これでも少しは用意してきたんです。お寿司も食べさせていただいているので……あれ?」


 カーゴパンツのポケットから出てきたのは彼女の合皮の財布と、裸のままでしわくちゃになった野口英雄。


「こんなお金知らない……」


 ものすごく見覚えのあるそれだ。なるほど、私が無視したアイコンタクトか。視線や触覚で誘導して、マジシャンのように自分が放棄したいお金を忍ばせたわけだ。


「あーうん、たぶん持っていて悪い物じゃないよ。平気」


「いやでも……気味が悪いですし……預かっていてくれませんか?」


 はあ……ため息が出てしかたがない。面倒なコミュニケーションを増やしやがってとコウモリを呪いながら、ひとまずは受け取ることとした。これで報酬うんぬんの話題が流れてくれれば構わないか。なにかの機会にマチへ返せばいいだけの話なのだし。


 はい、じゃあそれだけ受け取るね。手を差し伸べる。左手でお金を寄こしたサナちゃんが笑う。長そでのシャツの口からわずかに見えた手首。薄暮の野外ではまだ光が足りないということはなく、日焼けのしていない腕が奥までよく見える。リストカットの跡、赤く細く入った傷は何重にも重なっては、彼女の心を写していた。

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