お願い


「イズミさんにお願いがあるんです」


 言われるがままついていったのは、夏が終わりを迎え、涼しさを含んだ風の舞う多摩川の河川敷だ。まだ陽は出ているものの、多少歩く程度じゃ汗もかかないような気温。ふたりを横から抜いていく走り人たちは、流石に汗を流しているけれど。


「ヒグラシがとまる木?」


「そうです、そう呼ばれている木があるんです」


 ベイスターズ帽を直し、土手を登っていく彼女。古いコンクリートでできた階段を私も踏みしめていく。たしかベイスターズの帽子はホームとビジターでロゴが違うはず。それなりに珍しかった気がするな、帽子が場所によって変わるチームは。彼女の帽子はどっちのものだろう。ぱっと見で判断できるほど詳しくもないから、話題に詰まったときにでも聞いてみよう。


「ヒグラシね……なんか物悲しい気持ちになるよね、あれ」


「そうですね、私も悲しいし、なんだか心がざわつく気がします」


 夏の風物詩といえるだろうか。セミというと怖がる人も多いし、最近は子供だろうとセミを捕まえることも減っているそうで、生徒たちも路肩に転がる不発弾には恐怖を覚えている。しまいには家の玄関先にセミの死体が転がっていたから塾に来るのが遅れましたと言われる始末。そんなんでどうすると、まさに因業婆の写し鏡なことを言ってしまうこともある。そう、私はセミ、というか虫全般に対しての精神的アレルギーをさほど持ってはいない。もちろんゴキブリだのムカデなどには生理的な嫌悪を抱くが、顔にむかって蛾が飛んでこようが部屋の中にアシダカグモがいようが、基本的には冷静に対処はできる。蠅の一匹でわーきゃー騒ぐ都会の子供たちは、ひとり暮らしで虫が出たらどうするのだろうか。それなりの田舎でそこそこの自然の中で育ってきた身としては、そんな憂いを抱いたりする夏だった。だからこの季節で聞こえてきたセミたちの声は、ルーティーンとなった毎日の生活に句読点を打ってくれるものと重宝していた。あそこの電柱で鳴いているのはミンミンゼミだとか、なにかの間違いでそこいらの木にクマゼミがとまっていないだろうかと探してしまうのも、季節を謳歌するうえでは大切な視点だと思う。


「トモエがよく話してくれていたんです。イズミ先生はとても優しい人で、頼んだらたいていのことはやってくれる人だって」


 同じ中学、同じ二年生という学年。私がよく受けもっているトモエちゃんと友人であるサナちゃんは、前から私に会いたいと口にしていたらしいのだ。今日たまたま私がトモエちゃんと遭遇したことによって、居場所が彼女にばれたということになるらしい。少女がやっているからまだ私も寛大な対応をしていられるけど、それ以外の身分の人にやられたらきっとこんな風に並んで歩くようなことはしなかっただろう。それは自身に差別意識があることを意味するのかもしれないが、結果が出てしまっている以上とやかく言ってもしかたがない。少なくともこういった個人の特定はほかの人にやってはいけないのだと伝えるのは、話を聞いてからでも遅くないはずだ。


「それを先に言ってしまうと、私はむしろ断りやすくなるんだけど、それでもいいの?」


 トモエちゃんから聞いた印象なんて、せいぜいが営業モードになっているときの私だ。塾の講師というのは――特に個別指導ならなおのこと――生徒との距離が近いからこそ自分をある程度装飾して演出している。テスト前に関係のない教科であっても、いちおう使えそうな過去問をコピーしておいたり、あるいは授業の合間に彼ら彼女らの学校で起きた出来事を興味ありげに聞いたり、それもこれも信頼関係を構築することによって授業を円滑に進めるための手段にすぎない。まあハナからそう思うという程には冷淡ではないけれど、お金を貰っていないのであれば、赤の他人にそこまでするはずもない。ようするに、トモエちゃんがそう言っているのは、仕事しているときの私しか知らないからだと片付けられてしまうのだ。


「断られたのならしかたがないんですけど、親にも友達にも頼めないことを聞いてくれる可能性がある大人は、私の知る限りイズミさんしかいなかったんです。中学生が囲まれている社会とはとても小さなもので、私はそのこともよく分かっています。だからこそ、千載一遇のチャンスを逃したくなかった。トモエからのメッセージを見てすぐに家を飛びだしたのは、そういう理由なんですよ」


 小田急線が頭上の鉄橋を駆け抜けていく。登戸に停車したそれは、休日の午後にウトウトしながら座る人々を運んで、きっと神奈川のずっと西へと向かうのだ。横浜も川崎もない、東京なのか神奈川なのかも定かじゃない境界線をはみ出さないよう、手を広げてバランスをとるわけだ。


「それに、イズミさんが仕事をしているときだけお人よしだなんて、嘘なんだとも思うんです。トモエが言っていました、この間駅前で泣いていた女の子に声をかけていたって。あの子は心配こそしていたけれど、声をかけたあとどうすればいいのか考えていたら、そんな躊躇もしないで手を差し伸べたイズミさんが見えたんだって……」


 そんなこともあったなと思いだす。骨が折れるほど歩いたものだ。加えて全力疾走する羽目になったり、あるいは向ヶ丘遊園にそびえるエベレストこと生田の山を踏破したり。図らずも知り合いに見られていたとあれば、まあ頑張った甲斐もあるというものだ。


「それはなによりで……ただ、あれは私が必要だと思ったから声をかけただけ」


 嘘だ。本当はショックだった出来事から目を逸らしたかったから。


「はい、だから判断をしていただければ、お断りいただいても構わないんです」

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