ヤギの呪い
「贖罪の山羊、いやモドキか……」
ヘブライの聖書に書かれているらしい、罪を善良なヤギに押しつけることによって難を逃れる人々の話。この時代じゃ単なる不満のはけ口としか認識されていない言葉だ。どちらかというと今回も、そういう側面が強いわけだが。
「へ? 羊じゃなくて?」
異議を唱えたマチに、私は軽い笑いで返した。在りし日の同級生もこんな気持ちだったのだろう。湘南地区でも有数の進学校で、こんな会話を繰り広げることになるとは予測していなかったが。ちょうどいい、マチに対して知識でマウンティングをとるいい機会だ。
「あんたヤギと羊の区別もつかないの?」
「なわけ」
あ、そうですか。
「『メリーさんの羊』だよ。あの歌の詞って、後半は学校に来た羊をみんなが追い出すって話になるじゃん。メリーさんはそれを受けて泣きじゃくるって」
いや知らんが。
「えー一般教養だよ先生。大学の教養科目でなにを勉強したのさ」
「じゃああんたはヤギの呪いを知ってるのか」
「スケープゴートの話じゃなくて?」
「ぶー。メジャーリーグのカブスってチームが、その昔ペットのヤギを連れてきた男を球場から追い出して、それ以来ワールドシリーズで優勝できなくなったって話だよ」
一般教養だぞバカたれ。言ってて虚しくなってくるな、これ。
「先生、野球好きだね」
「……そうでもない」
ヤギの呪いが解けた試合、本当に熱かったんだよ。なんて飛沫を飛ばしていた男。私が興味ないっていくら言っても、一般教養だからと趣味を強要して、共用のタブレットで動画を再生してきやがった。
「ヤギの呪いについてはやたらと授業を受けてただけ」
今日のように思い出せる、バカバカしい日常の一幕。寒くなる時期は手がかじかんじゃうのが嫌だ。なんて分厚いライダー用の手袋をはめていた姿は、どことなく間抜けでつつきたくなった。美容室へバイクで通勤していたけれど、運転の様子をまじまじと見たことはついになかった。記憶にあるのはもっと穏やかな前進。こんな空の下を歩いたこともあるような気がする。夏のように長くはない一日を、行かないでくれと懇願するような散歩だった。私も彼も、歩くのが好きだった。駆けっこをしたこともある。結果は……。
「あっ、チカっちだ」
マチの声で私の意識が戻ってくると、中庭のほうへ歩いていくチカさんが見下ろせた。周りには同じく実行委員らしき腕章をつけた生徒たち。和気あいあいとなにやら談笑しつつ、校舎に囲まれた庭で、カルテットの演奏会なんかが行われている周辺をチェックしているよう。
「手でも振ろうかな」
「やめとけ」
仕事の邪魔になるだろう。
「というか、そろそろ演劇部のほうに行かなくていいのかな」
「うーん、そろそろ三時だし、そこで交代なんじゃない?」
なるほどねぇ。マチは頬杖をしながら、前のめりで中庭を見つめる。私は寄りかかっている手すりこそは同じくしているものの、見ている方向は反対の校舎側だ。マチはこのあと、あっちの出店にも興味があるんだと駆け出すのだろうか。飼い主としてはもうリードを放棄したいと思っちゃいるのだが、別行動は嫌がるだろうことも容易に想像がついた……。
「ぼくさ、ずっと疑問だったんだ」
「ヤギの呪いが解けた理由?」
「どうしてあれからの一週間、チカっちがなんのちょっかいも出されなかったのか」
なんだまじめな話か。ただ、私たちがここで相談したって真実に至るなんてことはできるとは思えないがな。暇つぶしでもしてやろうかと話に乗る。声色はぜんぜん話題に馴染まない、軽く弾んだまま話す。
「その事実だけ考えると、もう諦めたってことなんじゃないの」
「その可能性は否定できないけど、ぼくたちが想定すべきことじゃない」
まったくもって的を射ている。私たちが考えるべきはチカさんのもとにさらなる不幸が舞い込んで、完全に演劇に対する支障を生じさせることを防ぐ手段だ。気だるい午後にのぼせるようにうなだれていても、頭ではすぐに理解できる。しかしながら、と冷静な自分がもう一つの疑念を提示する。
「ぼくは今日の直前に、犯人が復帰不可能な一撃を与えるじゃないだろうかって思っていた。それこそチカの身体にダメージを与えるとか、あるいは演劇部のメンバーなんかを脅すとか……」
「そんなことをするリスクなんて、単なる嫌がらせのために背負うと思うの?」
その冷静な自分が顔を出す。
「いじめや嫌がらせなんて、そのリスクを分かっていない人間がすることなんだけどね。まあそれはともかく、ここでぼくたちは前提を思い出さないといけない。やつらはスケープゴートを重要視しているんだ。ということは……」
自らの罪の潔白、これを最優先にするということ。
「それはつまり……」
ちらりと振り返る。チカさんはまだ裏庭、彼女が丹精込めて制作したクラス旗が燃やされていたという場所でほかの実行委員となにやら談笑。ステージ脇からやってきた男子生徒から、書類を受け取ってはサインをしたりもしている。まだ彼女のシフトは終わらないのだろうか?
「……今日この日なら、シフト管理という形で証拠を作れるってあんたは言いたいのね」
視線を反対側へと戻す。この通路の真下にも、大勢の生徒が校庭にむかって歩き、また逆に戻ってくるものもある。彼ら彼女らのどれほどが、演劇部の公演を待ち望んでいるのだろうか。
「そう。アリバイと修復不可能性、その両方の恩恵を受けられるタイミングは……」
細く千切れるような破裂音。開けた宙に舞っては散った。また鳴った。
「なに?」
「……っ!」
瞬間私とマチは視線を反対に、背中合わせの格好。
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