おひさしぶりですね
指示も聞かず背後から路地を睨んでいるマチは、やれやれとばかりに肩をすくめた。夏には走るムギちゃんを追って、精一杯に手を伸ばしたこの路地には、隠れる場所なんてほとんどない。個人経営の居酒屋があることはあったが、閉店中。もうひとつ望むのはパチンコ店だが、そっちは入り口付近を固めている防犯カメラがこれ見よがしに存在感を放っている。これを無視して飛びこんだりするだろうか。しかも、私がやつを追っていたペースを考えれば、自動ドアが閉まる瞬間を見逃すとも思えない。
「あんたはどうしていなくなったと思う……?」
降参だ。猫の手でも借りたいとばかりにマチへ話題を振る。
「いっきに加速して奥の角を曲がった? ほら、薬局のあるほう」
大まじめな顔で言うものだからこっちとしても力が抜ける思いだ。こいつの受験は大丈夫だろうかと、職務上はたいへん関係の深い心配がよぎってしまう。
「ボルトより速いぞ、そんなペース。発想が単細胞な方法すぎやしないか。勉強のコツは参考書の答えを全部覚えるべしって言っているようなもんだぞ」
「やだな先生、だれにだって秀でているところはあるんだから、不可能だって思うことないじゃん」
「そういう話をしてるんじゃないわよ、バカ」
雪が溶けてから雪が積もるまで、年がら年中パーカーにショートパンツといういで立ちなマチは、さながらなにかの信者かのように半袖半ズボンを貫き通す小学生男子のようだ。そういう意味ではバカといって差し支えのないくらい、世界からはずれた人間。
「そのバカを治すのは先生の仕事でしょ~」
一月の中旬になろうかという時期に、塾の講師に大学受験生がなに高望みをしているんだか。三年前からやり直せ。
「テストで何点取ろうとバカは一生治らないのよ」
そもそも私がいっている「バカ」とはそういう意味じゃない。
「そこまで強力な病気なら、濃厚接触者の先生にも感染してんじゃない?」
「バカは先天的な病気で伝染もしない」
「え~金八先生によるありがたい『腐ったみかん』理論知らないの?」
「武田鉄矢は『腐ったみかん』なんていないんだって力説してたのよ、内容くらいちゃんと観ろ。バカ」
はっ、完全に言い負かしてやったわ、ばかちん。
「ごめーん、ぼく先生と違ってまだ若いからさー! 金八先生もリアルタイムで観たことないんだ〜」
「私だってほとんど観たことないわよ!」
「わー単細胞が怒ったー!」
「お前がうつしたんだろうに!」
抗議の絶叫は冬の雑踏、通行人もいない空虚によく響く。顔が熱いのは急に走ったせい。受験を控えた人間に殴りかかるわけにはいかないだろうと拳の矛を収める。
「バカにつける薬があるんなら、薬局で売ってくれりゃいいのにね~……」
くすんだように笑ったマチだが、妙に引きつっているのはふとした瞬間に襲いくる緊張や重圧からだろう。
「バカとハサミは使いようだろう」
私としては刺激もせずにただ、こいつのそばで息を吐いて時間を流した。白い蒸気は宙に咲いてすぐに消える。今日は関東における今シーズンでもっとも寒い一日になるのだと、天気予報のアプリは告げていた。
「ああ、いたいた……えっと、どうなりましたか……?」
探し回って流れ着いたという様子の彼女。最近の休日では恒例となった、私とマチの昼食帰り、たまたま歩いていた大学一年生。チェスターコートにタートルネックの白いセーターという格好は、一年ぶりに顔を合わせた私にとって、大人びたなというか、大学生らしくなったなという印象を抱かせる。
「あ、ごめんね置いてっちゃって……それと、ここで犯人を見失っちゃって……」
うしろ手に頭を掻いて、誤魔化すように笑うのもどうかなと自分でもツッコみながら、それでも再会の嬉しさを隠すことはできそうになかった。それだけに、ひったくりなんていうしょうもない罪を犯すやつを捕まえられなかったことが、いまさらになって口惜しい。
「いえ、大丈夫です。実はあのカバン、図書館に本を返した帰りだったので空なんです」
「へ?」
「だから、気にしないでください、いつも狙っているストーカーみたいなものなので……」
そんなゴミ捨て場を荒らすカラスについて語る表情で言うもんじゃないだろうと、眉をひそめてしまう私。マチも同様ではあるものの、表情筋の動きは圧倒的に少なかった。
「……そりゃ、なんか大変そうだね……」
「慣れている……つもりですけどね」
「バイト先の花屋もなくなっちゃうしね」
ともかく、つきまとわれているのだという話はあとで聞くことにしよう。話題を変えるのなら、夏のあの日、ムギちゃんという五歳児とふたりでこの街をさまよった夕のショックについてだろうか。ハナさんは何度も、私が絵にするためのお花を売ってくれていた、アルバイトスタッフの女の子だったから。
『イズミさんは優しい人なので、きっとだれかが見てくれていますよ』
「そうですねー。カバンにしても、まあタダで手に入れられるものでもないので困りはしますが。あれからバイトもやっていないので……」
だとしたらやはり追ったこと自体は正解だったのだろう。もっといえば捕まえてしかるべきだった……。畜生。
「……ところで、おふたりは知り合いなの?」
当たり前のように会話をしている被害者Aと私イズミの間柄が、なにやらただならぬと察知したコウモリ野郎。そんな首をかしげているマチに、信じられないという目を向ける。自分の顔は自分じゃ見られないが、おそらくはとんでもなくいびつに折れ曲がったそれになっていたことだろう。
「……あんた、覚えてないの?」
忘れられちゃっていたかと口だけで笑ったハナさんは、あらためましてと手を差しだした。
「去年まで同じ塾に通っていた、ハナミズキっていいます。マチちゃん、よろしくね」
彼女のほうは、となりや前後の席で授業を受けていたまっくろくろすけを覚えてくれていたようで、はっきり名前を読んでみせた。いちおう顔は知っていてしかるべきという立場のマチは、そこまで寛大な右手を差しだされてなお、口をへの字に曲げて事実にかんする疑義を隠さない。
「いらっしゃったかは覚えちゃないですけどまあ、どうも」
そこまでいうなら自己紹介くらいしてみせろ。わしゃわしゃとショートカットな頭を掴んでは無理やり下げさせると、マチは抵抗こそしないが低俗な文句を私に向かって放る。年増と言われたので足を踏んでやったが、もちろんそれは不可抗力ということにしておこうじゃないか。
「ハナさん、知っているとは思うけど、こいつはマチ。第一回共通テストが間近に迫った一八歳」
そんな私たちの様子を見てか、彼女はようやくお腹から出た笑いをこぼしていた。乾いているようで、感情がふんだんに込められている、冬に落ちるまばらな雨のような笑い。
「はい」
毛先をミックスで巻いたボブヘアは勢いよく頷いて、首から提げられていた青いペンダントが揺れる。なにかを反射したのか、きらりと輝く、雨の色。
「おふたりのこと、よく知っているつもりです。ほんと、おひさしぶりですね」
元花屋の娘は、私たちふたりを見てなんだか嬉しそうにしている。本心からの表情だとしたら、それはとても、ありがたいことだと思えた。
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