冬の風物詩
東京は新宿から神奈川南西部にある小田原を結んだ私鉄、小田急線。新宿方面から多摩川を横断しすぐにたどり着く向ヶ丘遊園駅は、豊かな文化資本として岡本太郎美術館および生田緑地、さらには藤子・F・不二雄ミュージアムなんかも抱えている、少し不思議な郊外だ。私は山のふもとから生田緑地を登ったところにある、小さな個別指導塾で講師をしている。本来ならたんに公立中学校やそこまでのレベルでもない高校の日常学習なんかを担当する、いわゆる補習塾に相当するような業態。大学生のアルバイトだって多くいるし、そのほとんどは国公立や早慶上智に属しているわけでもない、一般的な学力の持ち主。よって本格的な大学受験を望むのであれば、こんなところはさっさと抜けだし大手予備校に大金を注ぎこむべきというのが、私だけではなく塾全体の総意だ。
「まあいまさら変えられないですからね。慣れ親しんだ場所でがんばるほうが、いっそ安心しちゃうんですよ」
赤いメガネをかけたチカさんという生徒なんて、中学生からずっと通いつづけて幾星霜だ。いったいなにを間違えたらそんな判断ができるんだか分からないが。しかしまあ、一月中旬に共通テスト対策の問題集を解いている彼女に、問題以外のそれを指摘している余裕はない。
やたらと多くなった資料問題からは、これまでには問われなかったような細かい知識が飛びだしてくることもあれば、想像絶するほど単純な、きちんと問題を読んでいればだれでも答えられるだろうというものまで、さまざまだ。施行調査をもとにしているから、おそらくは似たようなそれが当日の彼女たちにも降りかかることに疑いはない。が、問題は予測ができても人のコンディションがどうなるかはまったく予想はつかない。チカさんは共通テストで第二志望の私立文系を射止めることは確実だろうと目されているものの、蓋を開けてみればスキージャンプで着地を失敗したかのようなダダ滑りを見せる可能性だって捨てきれない。私たち講師ができることはジャンプ台に乗せるところまでだからこそ、どうにもならないあとのことについて、心配してしまうのもまた性分というやつだ。
「それにさ、ぼくたちには頼れるベテラン講師もついていることだしね」
知ったような口を叩くパーカーバカのほうは、私だって慣れちゃいない世界史の教材を広げている。この二年間のあいだにこっちもそれなりに解けるようになったが、さすがに赤本なりし共通テストを相手取るにはなかなか厳しいものがある。事前に問題が分かっている場合ならなんとかなるが、スクランブルで解説が必要になった場合は骨が折れることこのうえない。そんな気苦労なんかつゆ知らず、いや、知っているのにその様子を見て楽しんでいるマチには最後まで苦労させられそうだ。
「先生、このテキストの問題部分を本番と同じサイズで印刷してもらうことってできますか?」
「あ、ぼくの分も、ここよろしく~」
もちろんこういう、授業外学習のサポートだってしなくてはならない。本日も残すところはあとひとコマになろうかという午後七時半少し手前、私は講師用の控え室にあるコピー機を目指し、パーテーションで区切られた迷路を抜けていく。ほかの講師が身を寄せて通り道を作ってくれるその過程が、いつもと同じくありがたくも心苦しく思われた。
控え室には最後のコマに備え数人の講師たちが授業準備に端末をいじったり、担当する範囲の問題を確認したりしていた。この塾でも上から数えてすぐの序列にいる私は、その部屋に入るだけで先んじての挨拶を喰らう。むろんこちらもへりくだって頭を下げる、先輩扱いされるのもいい気分はしないものだから。あくまでも自分とあなたたちは同列、一般的な講師にすぎないのだと態度で示した。塾長もそこでパソコンの画面と格闘し、どうにかして週末の授業にぽっかりと開いた人員不足という風穴を埋める方法を探っていた。だれも彼もが忙しい。師走は終わったというのに、私たちは今だってゴールを目指し腕を振っているのだ。しかも自分の努力がいかなる実を結ぶのかは自己の能力によって左右できるわけでもないというのが、いっそうのバカバカしさを醸しだしてくれる。
「あの、いいですか?」
パスワードを入れてから、渡された教材をスキャンにかけながら、次のコマにみる生徒たちの学習状況を思いだす。もちろん講師ひとりずつが抱えている業務用のタブレットを確認すればそれで済むのだが、どうにも画面にひとつの情報しか表示されていないという状況が気に喰わなくて、その日のたびに授業内容を暗記しては頭のなかで同時にそれらを思いだすというのが習慣になっている。チカさんの国語と中学三年生をふたり。全員が受験生という極端な状況も、塾長が私に彼女らを押しつけた結果としての布陣だろう。嫌だと騒ぐような場数でもないし、まあいくらでもこなしてみせよう。
「四六、七二、であとはあのテキストの三問目……」
「すみません……」
中学生ふたりは社会で、それぞれ歴史と公民の範囲だ。基本がどれだけ入っているのかによって説明の形は変わらざるをえないところだが、だとしてこの時期だと設問文と回答の関係性をとにかく覚えてもらうしかないのか、まだ体系的な知識を突っこむ時間があると考えるべきか。ひと月後に迫った神奈川県入試への最善手だってつねに選択をしなくてはならない。担当する子の顔を浮かべながら、どちらにどのように、どうにでも組める論理の組みかたについて思案する。
「えっと……今いいですか?」
ところでさっきから飛んでくるこの声はひょっとして。
「あ、私です?」
「はい、質問がしたくて……」
コピー機によるスキャンが終了したところで、背中越しに放たれていた声が私に対してのものであったと気がつく。リクルートスーツに身を包んでいた一年目の講師が、生徒ごとにファイリングされた、どの単元に手をつけるべきかというプランが書かれた書類を持ったまま、こちらを見つめている。戸惑った表情をしているのは、こんなに近くで声をかけたのになぜ振り向いてくれないのだろうかと思っているからだろう。たしかに考えごとをしていたけれど、それにしたって名前を呼んでくれればすぐに気がつけたと思うのだが……。
まあ、とにかく用件を聞くべきだ。いつだって平等に流れている時間というものだが、時期によってその価値を変えていくのは、観測者が人間であることの限界だ。今この瞬間の時間は、まるで砂金を流す砂時計だ。
「どうしました?」
「えっと、プランの単元が今日で終わってしまいそうなんですけど、引き継ぎになんて書けばいいのか分からなくて……」
「場合によります、だれですか?」
告げられた名前はかなり成績のよい、今年の中学生のなかでも高偏差値の学校を目指している子だった。だとしたら残った応用問題を片っ端からやるか、あるいは別教材に移行するか。とうぜん過去問も並行していくわけだが、一ヶ月もそればかりやるには、神奈川県の受験問題は近年変更が加えられすぎている。ケーススタディの効果が薄い過去問なんてものに傾倒してはいけない。と、これを彼女に伝えるには時間が足りないか。
「カズキくんならとりあえず残った応用問題……そうだな……複雑な時差計算が出てくるところにしてみてください。ここ数年で難易度が上がっている部分なので価値はあると思います」
「なるほど、ありがとうございます!」
お辞儀をしてくれた彼女はアキ先生という大学一年生の新人さんだ。とはいってもこの一年間は私と同じように文系科目を教えてきた経験があるのだし、夏期講習だってそれなりには戦ってくれていた。学力だって、学科こそ違えど私がいた大学と同じなのだし問題はないだろう。特別いい成績ともいえないという意味でもあるが。
ただ、今の質問のしかたはあまり褒められたものではない。自分で考えているのであれば、彼女なりの案を提示してしかるべきだ。私はどうしても高校生の歴史科目を担当しなくてはならないから、中学生だとアキ先生のほうが多くみている子だっている。だとしたら「なんて」という疑問詞を使わずに「こうしようと思っている」と私に許諾のみを求めるべきだった。自分でなにも考えていないのか、それとも考えたうえで言うのをためらっているのか。前者なら不慣れや緊張で説明もつくが、後者だった場合はそのブレイクスルーは遠くなってしまう。考えていない人間に考えさせるのは指導だが、考えて言わなかったことを無理やり言わせるのは暴力になりえる。職場の人間にそんな暴力を振るうリスクはだれも背負わない。
「はあ……」
ため息は控え室のなかのだれにも気づかれることはなかったが、その代わりとばかりにほかの講師もつぎつぎにプランの確認や残りコマ数の問題なんかを私に相談しようと立ち上がる。そこでキーボードを叩いている塾長に聞いてくれればいいのになと肩を落としたくもなったが、顔色を変えないように努め、印刷物をマチとチカさんに渡してくるから待ってくださいと言葉を残した。
控え室のドアを閉めると宿題を告げる講師たちとそれらに賛否を叫ぶ生徒たちとの合唱が広がっていた。人が密集したことによって発せられる妙な熱気と、暖房の影響で乾燥している空気が混ざった異様な香り。マスク越しでも伝わってくる混沌は、これもまたひとつ、冬の風物詩と思えるものだった。
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