怒髪天
事件が起きたのは次のコマだった。
くるくると三人順ぐりに社会科の解説をひたすらくり返し、横断する範囲をそれぞれの子供たちに適した言いかたで説明し、それが理解されているのか、それとも分からないけれどなあなあにうなずいているのかをつぶさに観察しなくてはならない。この視点は、生徒から寄せられる特定の講師の説明が分かりにくいというクレームからすると、説明に手いっぱいになってしまう多くの講師にとっては理解できない世界らしい。目がふたつ、口がひとつ、耳もやっぱりふたつだけ。配られたカードはせいぜいがダイヤかハートかというマークの違いくらいしかなく、ようは使いようなのだなと思うが、こっちだって知らないところでなにを言われているのか分かったものではない。調子に乗ってはいけないなと兜の緒を締めていると、生徒から円高と円安がまたこんがらがったから解説してほしいという悲鳴が飛んできて、ムギちゃんをあやすような心持で救援に向かうこととした。
「なんで数字が上がっているのに安くなるの?」
「安いという概念の問題なんだけどね……よし、冷静に考えてみよう、まずはね……」
これまでと何百回と詠唱されてきた為替メカニズムを顕現させようとしたところ、私たちよりも入り口から遠い、奥まったパーテーションから大きな声が響いた。
「だから! その言いかたじゃ分からないって言っているんだ!」
もちろんここは何十人という生徒と講師が入り乱れている空間だから、悲しみやあるいはちょっとした笑い声、コミュニケーションで表れそうな感情のひととおりが見本として展示されていても不思議はない。
思わず私も、説明を受けようとしていた中学生も、前方にあたるその座席のほうを見やってしまったのは、教室内でそう噴きだすことのない「怒り」の感情がその声に含まれていたからだ。言うまでもなく講師が生徒に対して小言なりし苦言を呈することはある。子供を叱ることに著しい抵抗を示す人間、保護者がいないわけでもないが、こちらが必要だと判断した宿題をやらず、そしてなにか対案をもってして勉学に励んだわけでもない生徒に対して、はいそうですかとうなずいていては、なんのために私たちはいるのだろうか。というわけで、多少声を荒らげる講師がいることも、やはり茶飯事ということはできる。
ではなぜこの瞬間、私も生徒もいっせいに現場へ目を向けてしまったのか。なにが特異だったというのか。答えはシンプルで、怒髪天を突いている側の人間が生徒であったから。
「ご、ごめんなさい……えっと……えっとね……」
怒鳴り声を上げた中学三年生の男の子をなだめようと謝罪の言葉を口にしながら、事前にコピーしておいたのであろう参考書の一部を懸命に読み解いている。大学一年生のアキ先生だ。あんな風に怒った声を聞いたことがなかったから、男子生徒がカズキくんであるということもここでようやく気がつく。
「もういいですよ、あとでほかの先生に聞くんで」
「あ、ううんと……ごめんね……」
目に涙を浮かべ、顔をリンゴのように真っ赤に染めてしまっているアキさんはなかなかに痛々しく思えて、どうにか助け舟を出してあげられないだろうかと、私は中学生に断りを入れ、キャスターのついた丸椅子から立ち上がる。同じくパーテンションから顔を出して状況を確認していたチカさんは、私の動きを見るなり中学生へそっと声をかけていた。
「円高と円安の話?」
「え、はい、そうです」
まさか彼女に授業を手伝ってもらうことになるとは……私にしたって不出来な授業をしているなと自嘲しつつ、チカさんが演習問題を解き終え、さらにいえば見直しも終わっているのであろうことを頭に情報として入れておいた。
「どうかしたの? カズキくん」
「イズミ先生……」
返事をしたのはマスクが苦しくないのだろうかと心配になるほど、顔から火を噴いているアキ先生のほう。雷を落とした雷神ことカズキくんは、黙ったまま問題集の回答に書かれていた解説に目を落とす。
「……スンマセン」
「……まあ、ちょいと声は大きかったかもね……」
さてどう考えたものか。さっきのように講師が行う指導にかんして要望や抗議をする権利が彼らにないわけもないのだし、その部分を咎めるつもりはまったくない。しかしながら解説の内容が分からないのが、いかなるゆえんがあってのことなのかは詳しく話を聞かなければ判断はつかない。授業を止めるかあとで時間をもらうか、それが簡単に思いつく解決案ではある。しかしながらそうやって大事にしたことによって、カズキくんのモチベーションや根本的な気分が傾斜してしまうことも避けなければならない。子供の気持ちを理解するためにはとにかく話を聞けばいい、という考えかたは、他者に無理やり話しをさせるという暴力を強いることに等しい。
「分からないところがあるのなら、授業後で悪いけど私のところに来て」
私の言葉に彼は顔を上げた。手元のテキストがあらわになったが、そこにはなんの変哲もない、日本国憲法にかんする範囲が広がっている。塾長からの又聞きではあるが、カズキくんは私の授業をそれなりには気に入ってくれているらしいから、このお誘いで手打ちということにしてくれないだろうか。
「いえ……暗記するしかないってところですし、大丈夫です。ありがとうございます」
暗い表情だ。勉強のためにと生徒の数にも負けない量の蛍光灯で照らされている塾には似合わない。部活をやっていたころに比べるとずいぶん伸びた前髪は、だれかからの視線を防ぐために張られているバリアのよう。私が言えた話じゃないが、目で語ることを、彼は今、拒絶しているように見えた。
「……よし、じゃあまたすぐに私の授業があると思うから、そのとき軽く話すよ」
うなずいた学ラン姿の横顔を確認し、まあ時期的にもみんな不安定になるもんだしなと、鼻だけで息を吐いた。邪魔したねと手で合図をすると、アキ先生は申しわけなさそうに頭を下げた。脳天が見えるくらいに、情けないと指を震わせながら。
そのフォローをするのは今ではない。この瞬間、私たちはお金を貰って授業をしているのだ。従業員の心へ気遣いをするのは、舞台を降りてからでなくては示しがつかない。開演中に起きたアクシデントには、だれであろうとアドリブで乗り切ってもらうしかないのだから。
「チカさんありがとう。さて、私とどっちが分かりやすい説明をしたかな~?」
わざとらしく明るい声を出してしまうのは、自分にとっても必要な、空気のスイッチを押すような気持ちからだった。自分を騙す自分に乗せられて、気分転換も含め、協力をしてくれた高校三年生に言葉だけでじゃれついた。
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