カタカナで書いたみたい
が、言葉だけで抵抗したところでどうにもならないこともある。
「さっむ……」
閉め作業を塾長に放り投げ、講師陣では本日最後に退勤をした私はコートの上からみずからの肩を抱いていた。針で刺すような冷たさは、野暮ったいダッフルコートなんて貫通してみせる。下半身はスキニージーンズだけの頼りない防御しか施されていないからなおさらだ。赤鼻のトナカイになったような痛みを顔面に湛えつつ、同じ寒さに身を投じている後輩講師に笑いかける。山の上は嘘みたいに冷えますな、と。
「……今日、すみませんでした……」
肩を落とすとはこのことだ。腕が千切れてしまうんじゃないだろうか。そのときは拾ってあげなければならないのだろうが、はてさてそこから彼女は自分の腕を振るうことができるようになるのだろうか。
「気にしないで、まあ一年目だとこういうこともあるよ」
「でもいちおう四月からやっているのに……成長しないままで……」
「塾長も言ってたでしょ、冬はそれだけ厄介な時期なの」
アキ先生は彼女が大学生になった春から働いているから、一般的なアルバイトの感覚でいえばもう新人という冠は外してしかるべきだ。もちろん一一月のテスト対策のころなんかはそうこちらも認識していたし、授業も、引き継ぎも、あるいはそのほか細かな気遣いにしたって文句をあえて言う気にはならない。
けれど受験直前の一月は別だ。完全なデッドラインが見えているなかで、問題の傾向もそう変わることがないという条件。確実に生徒自身のレベルを伸ばさなければならない環境は、定期テストを付け焼刃の知識で突破させるのとはわけが違う。こんな補習塾に来るような生徒は、言っちゃ悪いが勉強のセンスやモチベーションが低い子たちばかりだ。だからといって人間としての価値が劣るとは思わないものの、私たちの仕事がそう簡単に前進する条件が揃っていないこともまた事実。
「冬期講習って、そんなに夏とかと違うものなんですか? 夏期講習も私はそんなに出られてないんですけど」
「少なくともこの辺に住んでいる子たちにとっては違うかもね」
「……そう、なんですか……?」
よく分からないという表情だ。山を下る足は前方にかかる荷重に驚きながら、えっちらおっちらと真っ暗な大学の横を通過していく。そこは私が以前通っていた大学で、今はオンライン授業という新事業によって、広大な土地もご立派な建造物も木偶の棒と化していた。
「ようするに夏を一生懸命にやっていないから、この時期になって焦りはじめるの」
身も蓋もない理由だなと、言いながら思ってしまう。
「……そんな単純な話なんですか?」
呆れたような様子から、アキさんはこれまでさぞまじめに勉強をしてきた人間なのだろうとうかがえる。私だって北関東の山の中でギークをやっていたころは、ここの大半の生徒たちよりは勉強に勤しんでいたと記憶しているが。
「残念ながら、土地柄ってやつなのかな」
まずこの川崎市が属している神奈川県に暮らす子供たちの学力平均は、全国で下から数えてすぐの順位につけている。これは今に始まった話ではなく、元来そういった傾向は続いていたのだ。ゆえに進学塾に通っていない子供たちの少なくない割合が、学校で行われる授業の内容をさっぱり理解できていない。日本史でいえば時代の順番が言えないような子は珍しくないし、国語や英語で主語、述語、名詞、動詞、以外の品詞が言えてかつ理解できていたのなら拍手ものだ。簡単にいえば、驚くほどの低レベルなのだ。
「けど受験日は絶対に訪れる」
「それが分かっているから先に勉強しておくものなんじゃ……」
正論だった。
「サボりと乞食は三日やったらやめられないってやつね」
人間とはなかなか理想どおりに動けないものだ。私だってやめておいた方がいいことに首を突っこんでしまっている最中なのだ。おかげで帰ったらご飯があるという、ひとり暮らしにとってこのうえない現象が発生しているのだが。
「だけどカズキくんはそんなことはないですよね……」
「そうだと思うよ」
そう、本日ご立腹となったカズキくんはあの塾の中三生のなかでもトップクラスの成績を修めている。毎年ひとりかふたりくらいはいる、ほかのレベルが高い塾でもやっていけるくらいに実力のある子。あの子の家は惜しげもなく教育に金銭を投じるということもあるが、やはりいいセンスをしていることも要因だろう。
「お姉ちゃんといっしょで、よくできますよね」
「ああ……そうね……」
これは彼に限った話ではないが、八月の夏期講習のころにはタイムリミットも遥か彼方に思えていたのに、気がつけば残り一ヶ月となった高校入試の日付に焦りを覚える子は多い。そんなものは子供特有の現象でもないし、彼らの人生で何度も襲いかかってくる、時間という残酷な仕組みの片鱗だ。
「カズキくんの返事、あれからずっとカタカナで書いたみたいに平坦になっちゃって……」
分かるような分からないような表現に、相槌だけを打つこととした。
アキ先生が経験するはじめての冬。それは私にとっても慣れない雰囲気を醸しだしている。去年の春口から休校となった学校たちは、その遅れを取り戻さんばかりに授業スピードを上げていき、ただでさえふるい落とされる子供が多い公立校を、いつも以上の遠心力で振り回した。受験範囲が削られているものの、テキストに変更はできなかったためにちゃんと大人がどの範囲をやるのか指示しなくてはならない。こっちが間違えればむこうも無駄な勉強をしてしまうし、過去問演習でもまったく同じことがいえる。不安定になる子が出てくるのもしかたがない。だれもこの二〇二一年に、受験を経験した人間なんていないのだから。
通常の受験にすら経験のないアキさんには荷が重く感じられるかもしれないが、塾講師というものが本領を発揮しなくてはならないのがこの時期なのだし、中学生の文系全般をみることになっている以上、次はがんばってもらうしかないだろう。
手先にまとわりついた風は極寒を連れてくる。実家付近でもそうだったけれど、人間が一〇分程度あれば登れてしまうような山でも、下の街と比べるとやはり寒い。耳が痛くなる季節のなかでも、こんな帰り道は特別歯が震えるのだから、これ以上の高地に住んでいる人にしてみれば寒波はもはや災害だ。
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