さながら廃墟

「あれ……なにか声が聞こえますね……」


 アキ先生の耳も痛くならないのだろうかと不思議に思っていたが、彼女はなかなか気候に対する文句を言わず、なんなら陸の孤島と化している我が母校に首を傾け、音の波を拾い集めている。


「こんな時間に? アホな大学生でもいるんじゃない?」


「いえ……あそこに……」


 指をさしたのは道路からでも見える位置、総合体育館前にちょこんと置かれたひとつのベンチだった。アイスとドリンクの自販機に寄り添っていたそこには、見慣れた高校生らの姿が浮かぶ。私は今日も嫌というほど見た彼女たちが、野外でひたすら話しこんでいる姿に、皮膚の感覚がなくなっているんじゃないだろうかと要らぬ心配をした。こんな駐車場横のベンチで腰かけていたら、ものの数分で凍死してしまうだろうに。


「あ! 先生たちじゃん、あろはー」


「こんなバカ寒いとこでティータイムなんてしてんじゃないわよ、あほかー」


 信じられないことに、氷点下も間近なこんな日でもやはりマチはパーカーにショートパンツだ。低温に包まれて赤くなってしまいそうな気もしたが、どんな魔法がかけられているのか、こいつの足はいつだって真っ白。見える身体のすべてが絵の具で塗られたように均一の白で保たれている様は、よくも悪くも持って生まれたひとつの呪縛。


「最近よく喋ってるんですよ、私もマチちゃんも帰ったあとに勉強する前のちょっとした休憩です」


 さっき別れの挨拶をしたばかりの赤いメガネのチカさんは全身を布という布で覆いつくしている。手元にはホット飲料、レモンティーの文字。マチも微糖コーヒーのホットを握っているから、内臓はまだ人間の域を脱していないらしい。


「気持ちは分からないでもないけど……」


「いつもがんばってますもんね、ふたり」


 よく言ってくださいましたとふたりに歓迎されているアキさんをよそに、私はどうにも煮え切らない思いでその場に立っていた。とうぜんながら彼女たちの行動には、もう目と鼻の先にそびえる共通テストという名の関門が影響を及ぼしているのであろうことは明らかだったからだ。マチもときたま不安げな態度を見せることはあったが、私にはそれを払しょくするだけの力がないのだなと、無力感も感じてしまう。


「あんまり遅くならないようにしなさいよ」


「ハーイ」


 ふたり同時の返事だ。


「カタカナ発音って、これか」


 肩をすくめながら、アキ先生と並んで自動販売機の前に立つ。まあ乗りかかった舟というやつか、ここでこの子たちを残して帰るのもせんない話だ。受験にかんするものでもいいし、ほかのなんだろうと、とりあえず愚痴でも聞いていくか。


「大学」


 ニュートンとリンゴの関係性を感じつつ、私はブラックコーヒーを掴み取る。重力というものがなければこの缶はわざわざしゃがむことなく飲めたのかもしれないが、アキ先生のこぼしたセリフはそんな自然界の法則とは関係なく、思いのままに発せられていた。


「こんなに、静かすぎるところなんですね」


 彼女は私たちに背中を向け、真っ暗な窓が立ち並ぶ大学の影を見つめている。私が通った四年間、彼女が通えなかった一年間。風景は凍結された人の営みを求めているわけでもなく、ましていわんや待っているようにも見えなかった。アキ先生はこの一年間、自宅から歩いていける距離にある私立大学にインターネット回線を通じてアクセスし、教養科目や専門科目のなかでも初級レベルの講義を受けていた。すでに卒業している私には分からない、まったく違う大学が、形もないままそこにあった。


「さながら廃墟だよね」


 アンニュイなアキ先生に、ゴリゴリのタメ口をきくマチは缶コーヒーを飲み終えて、山川の一問一答を開き、眺めている。遺跡にかんする問題が苦手なマチだって、実際に見つめている風景にそれを連想することは、むずかしくはないよう。


「まさに向ヶ丘遊園ってね」


 私はその連想に、この街に広がったひとつの廃墟を繋げていく。


「バラ園のところにある、あれですか」


 チカさんが足をパタパタと揺らしながら話を広げる。


「そう。すでに廃園になってしまった遊園地。向ヶ丘遊園」


 私の首肯にアキ先生は目から鱗と声を上げる。


「え、まだ残っているんですか? 駅の名前になった由来の遊園地って」


 聞いた話では数年以上はこの土地に住んでいると聞いていたのだが、案外調べていないと気がつかないことらしい。もっとも、大きな通りから遊園の跡地を見ることができるのは藤子・F・不二雄ミュージアムの目の前くらいしかないし、生田緑地からそのまま続く森に阻まれてその全貌はまったく掴めない。唯一、元向ヶ丘遊園であった土地に踏み入る方法があるが、春と秋、季節限定に開かれるバラ園に一部区画が解放されるだけとなるから、地元民でもなかなかお目にかかる機会は少ない。今から二〇年以上も前に閉園した遊園地なんて、私たちのような年齢の人間は調べておかなければその存在を知りえないのだ。


「もう入れないけどね」


 私は以前、死んだ恋人とこの街の駅がなぜこうも珍妙な名前をしているのかを調べ、そのまま遊園地の歴史や遊園地と小田急線を結んでいたモノレールについて、情報を嗜んでいた。こんなところで話題に出るとは思わなかったし、重ねられる影が自分の通っていた大学になろうだなんて想像もしていなかった。


「行ってみたかったな~今じゃ道路から大階段しか見えないしね」


「マチちゃんってよくそれ言うよね」


 私の知らないマチについて笑うチカさん。


 花の大階段。向ヶ丘遊園の正門に君臨していた横幅が異常に広い階段だ。個人的には『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段を思わせる堅牢さだ。私とマチが住んでいるアパートから歩いて数分という距離だったから、家から徒歩一五秒のファミリーマートではなく、セブンイレブンに用事があるときなんかはよく眺めている。


「……私、どうやって授業すればいいんですかね……」


 アキ先生はおずおずとマチ、チカさんに並ぶようにベンチへ座った。チカさんはさっきのやりとりを目の前で見ていたし、マチも教室に残って自習していたようだからアキ先生の授業でなにかがあったことは分かっているだろう。


「だってさ、教えてあげなよベテランさん」


「まあ、むずかしいものですよね」


 軽口を叩くマチと対照的に傷心のアキ先生を気遣うチカさん。とくにコウモリ野郎は好きに言ってくれるなとうんざりしてしまうが、個別指導塾の技量なんてものが言葉だけで伝授できるとも私には思えなかった。彼女がうまく説明できなかったという基本的人権それぞれの権利にかんする説明も、知識が足りないのではなく言語化ができなかったという原因なのだ。脳みそと口のあいだにある言葉というものの精度は、一朝一夕に鍛えられるものでもない。こういうものは経験なのだ。なんども試行錯誤して、身に着けていく無形の剣でしかありえない。


「なにかこう……これさえ気をつけておけばっていうものとか……」


 ん~そうね~。言いながらもう答えは思いついてしまっている。


 そんなものは、ない。


「どう接する、説明するのがベストとかは……子によるからね~」


 という形でお茶を濁すしかないだろう。とりあえず道化っぽいことを言って会話の落としどころを作り、さっさと次の話題へ行くべきか。というか帰るべきか。


「バカとハサミは使いよう。私だっていちおう教えられるようになったんだし、心配しなくてもいいと思うよ」


「そうそう。ぼくやチカっちはちゃんと先生たちよりもすごいとこに受かってみせるよ」


 ねーと高校生ふたりは笑い合っている。彼女たちの目指している大学に合格を貰えるのであれば、たしかにトンビがタカを産んだようなジャンプアップと評することができる。そういった実績に私が心から飢えているわけでもないが、彼女たちの願望が叶うことを私だって望んでいるのだ。和やかなマチらへ、再度私は最後までの協力を誓った。


 心の内で、だが。


「それに、中学生なんて承認欲求満たしてやればいいんだよ、こう、おだてて、イチコロって感じでさ~」


 指をピンと立てるマチ。


「イチコロってなによ」


「こう、ハサミでズバッと」


「切るんじゃない」


「てか、そっちこそいい加減、前髪切りなよ」


 マチは私の目元をじっと見つめている。こいつといっしょにチカさんの文化祭に乗りこんだときや、あるいは疾走したのちにミチルさんのど玉をぶち抜こうとした事件のころよりもずっと伸びてしまった私の前髪。もう目元にかかるというレベルではなくなり、単に視界を妨害する壁となってしまった炭素たちを、私は横に流すことによって世界を眺めている。マチはその様子が気に入らないらしく、たびたびこうやって散髪の催促をしてきていた。


 まあ、恋人が死んでからずっと髪を切っていない事実を、こいつが知っているから、何度も言ってくれているのだろうが。


「……そのうちね」


 なぜいまだに髪を切らないのか。マチがそれを理解することは、もうしばらくないだろう。


 はいはい、そろそろ帰るわよ。風邪でも拗らせたら堪ったもんじゃないんだから。という号令によって、女四人は下山を開始する。夜更けに近づくほどに深刻になっていく寒さは、斜面を歩く私たちに容赦なく襲いかかる。生きているだけで気温と向き合わないといけないだなんて、恒温動物に生まれた偶然を呪いたくもなった。チカさんと坂道の途中で分かれ、山を下りきったところにある踏切を渡りゆくアキ先生ともまた明日とあいなった。


「……やっぱり、イズミ先生には、私、敵わないんでしょうね」


「ん?」


 電車の通過を待つ赤い点滅のなか、彼女は背中を見せたままでそう言った。警報機のやかましさに霞んでいた言葉の意味を繋ぎ合わせている私は、ただ疑問符を浮かべることしかできず、黒いパーカーは私がアキさんの言葉によって立ち止まったことを、数歩進んだアスファルトの上で気がついたよう。


「だれも代わりができない。イズミ先生は、そういう人だって話です」


 意味のない音だけがこちらの口からこぼれて、突風とともに遮断機のあちら側を突き進む小田急線が、そのコミュニケーションをリセットさせてしまう。黒と黄色、スズメバチみたいな腕木が持ち上がると、アキ先生は挨拶を残して歩いていった。こちらもそれに会釈を返したわけだが、どこかぎこちなさを感じるやりとりに、首をかしげてしまう癖が出た。


 数日後から始まる大学受験。本格的な受験ムードを充満させていく我が職場に、これ以上の波乱が起きないことを祈った。


「先生、帰ろうよ」


 実現なんてしたことのない、ひたすら裏切られ続ける、「平穏無事な一月後半」という期待。私は深くため息を吐いてから、コンバースに覆われた足でひとつ、叩くことでアスファルトを奏でた。

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