神々しいまでのニワトリ

「おかえりなさい! 先生!」


 あんまり大きな声でそう呼んでくれるな……。思わず乾いた笑いが飛びだしてしまったが、ともかく急ぎドアを閉める。古びたアパートの廊下には、頭をとろけさせるような香辛料の香り。空腹の人間には絶対に与えてはならないような禁忌で満ちた空間に、なんの許可もなく入りこんだマチが声を上げる。


「うおおおおおめっちゃいい匂い」


「まず手を洗え」


 超特急で洗面台の前で手を擦っている私は、さながら神域に立ち入る前に身を清める修行僧。マチのような不純な人間とは違い、私は食事に対し全身全霊をもって向かい合うと決めているのだ。交換した覚えのないタオルは洗いたてのふんわりによって迎えてくれる。


「本日はもも肉を使ったチキングリルです!」


「皮は?」


 重要なことなので確認だ。


「ついています!」


「一〇〇点!」


 合格間違いなし!


 キッチンで腕組みをしているエプロン姿さんは、私たちの食欲を煽り散らかすように笑い、こんがり焼き目のついた鶏肉を盛りつけるためお皿を並べていた。恋人がいたときに揃えたそれらは、塩コショウがてんこ盛りになった二〇〇グラムを抱えてみせる。


「こりゃずいぶんなお手前で! ミズキっち天才!」


 神々しいまでのニワトリは、もはや鳳凰にすら匹敵するまでの輝き。たまごスープと冷やしトマトまでもが食卓たるローテーブルに駆けつければ、庶民風満漢全席のできあがりだ。


「ハナさん今日もありがとうね」


 吊るしで買ったコートを脱ぎ、ハンガーにかけたらすぐに座椅子に腰かける私。セーター姿のハナさんは、ゆったりと巻かれた髪によく似合う柔らかな表情。


「いえいえ。これでも家事は昔からやっているので……」


「へー、ひとり暮らしも長い先生でも、ずぼらになって久しいというのに」


「お前に言われる筋合いはないわよ、実家暮らしのぬくぬく環境人め」


 とうぜんとばかりに用意されたマチの分の食事を前に、黒パーカーはフォークとナイフを構え舌なめずりに勤しんでいる。私の指摘も聞いちゃいない。年明けからこっちこいつが家に来る頻度は増してはいたが、ハナさんが住み着くようになってからは餌にたかるハトのように堂々たる態度。


「なにもかもひとりでやるのは大変でしょうし、居候させてもらっている手前、これくらいはやりますよ」


 それと比べてハナさんの聖人っぷりはどうだろう。べつに邪魔と思っているわけでもないが、それでも他人の家に上がりこむときの作法というものを弁えている人のほうが、可愛がりたくなるというものだ。どっかのマチとは違って。


「いただきます」


 三人が口々に呪文を唱えたら、麦米を軸に食事は開始されていく。マチも一問一答から目を離し、口の中に広がる香ばしいチキンに唸った。目を細めているやつの顔を見ると、どことなくこちらも安心した。


「っと……」


 小声を漏らしているのはハナさんで、いつもどおりに自分の摂る食事を親御さんに送っているようだ。


 自分の子供の食生活をそこまで把握したいものだろうかと疑問が浮かばないでもないが、よその習慣に口を出すものでもないかと黙って咀嚼を続ける。エネルギッシュな油が口の中で弾けると、今日一日の苦労なんてものは羽根を生やして飛んでいくような気がした。さながら口の中のニワトリのように。


「いやいや先生、ニワトリは飛ばないでしょう」


 鼻で笑っているマチは、口の端に米粒をくっつけるというトンマをしながら嘲笑を放つ。むかつくから指摘しないでおこう。


「マチちゃん、お米」


 そんな私よりもずっと柔らかく、大仰な言いかたをしないハナさん。


「ん? ああ、ついてたね、ありがと」


「っち」


「わざわざ聞こえるように舌打ちしなくていいって」


 まったく優しいのも考えものだ。マチに気なんて遣う必要なんてないだろうに。


「そういえばミズキっちがここに転がりこんできてからどれくらい経ったっけ」


「ニワトリめ」


「いや~それくらいには受験に集中しているということですよ、センセッ」


 まあもちろん、こいつの言うとおり今は他人のことにかまけている暇はないだろうし、日付感覚もなくなるほどに勉学に勤しんでいるのだから、しかたがないだろうが。


「ふふっ」


 この家にやってきてから一週間が経過しているハナさんは、口元を抑えている。私たちのやりとりを見ているとよくするリアクション。チカさんもアキさんも似たような顔をすることはあるが、この手の囃し立てるような面持ちを喰らうと、どうにも心を持て余してしまう。


 そんな逡巡を知ってか知らずか、ハナさんは目を曇らせてから呟いた。小ぶりなチキンステーキをまだまだ余らせていながら、フォークをすでに置いてしまいそうな手元にむかって。


「……私のほうは逃げちゃったな……」


 ハナさんの話をよく聞いていたのは一年ほど前になるが、そのころから彼女の従順ともいえる柔軟さはよく感じていた。本人がどこまで意識しているのかは定かではないが、どんな人間にも反抗しないというのはなかなかに危険な状態な気もする。


「そんな風に自分を責めたってしょうがないよ?」


 マチは舌の上で鳥を転がしながら、今を楽しむ手本のように笑った。あざ笑うというニュアンスが含まれていない、まさしく励ましと呼ぶにふさわしい。私もうなずいて、熱いうちにスープへと手をつけた。買い溜めたインスタントな味だけれど、他人が作ってくれたそれは格別の価値がある。


「まあでも……お父さんの言うとおりなところもあるので……」


 しかし、こうしてひさしぶりにさまざまなコミュニケーションを取ると、一年前を思いださざるをえないな……。彼女の口から流れる家族の話題は、かなりの割合で重く、苦しい色が混ぜられているのだ。


 こういう感じだった。そう、だからこっちも話題を選らばされた。


「ストーカーなんてやるやつが一〇〇パーセント悪いんだから、ミズキっちは気にしなくていいのに……」


 珍しく同情を露わにするマチだ。その慈しみを少しはこっちに分けてくれないもんだろうか。


「でもやられる側にも原因があるはずだって言われると……そんな気もしてくるんですよね……」


「そんなことないよ」


 思いのほか熱かった汁物が喉元を過ぎてから、私は即答した。


「ありがとうございます……それでも家にいたら……」


「お礼はいらない、私は事実を言っているだけ」


 これもハナさんにとっては重圧になってしまうかもしれないなと、彼女の両親と同じ穴の狢になる自分にうんざりする。しかしながら、他人に恐れられることを恐れていてはなにもできまいと、ハッキリ自分の立場を表明するべきなのだ。


「あなたがいることが迷惑だとは思わない」


 だれかさんたちと違ってね。言いはしないが私はある種の決意を宿して、飛べない鳥を噛みちぎった。マチは満足げにこちらを眺め、同じように犬歯を剥きだし、たんぱく質やらビタミンA、Bを摂取していく。


「まあ、私も風邪を引いたときの扱いで、心底家を出たいとは思いましたけどね……」


 吹っ切れたように笑った彼女は、私たちより数段小さく口を開き、口をもぐもぐ動かしている。

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