第七話 花屋の娘

全力の追いかけっこ

 いっさいの迷いなく、黒い弾丸は走り去るフード姿を追いかける。


「マチ!」


 スウェット姿の長身を追いかけていく教え子は、返事もせずにただスピードを上げた。私も犯人確保に動くべきだろうと脊髄からの反射が身体を動かしていく。夕刻の線路沿いに座りこんでいたハナさんに駆け寄ると、私も行くと宣言する。


「ここで待ってて!」


「え、先生っ!」


 走りだして数秒、犯人、マチ、そして私という順番に並んだレース展開はカーブを描きコンビニを添えた通りを消化していく。マチとひったくりの距離も縮まっているが、それ以上に私とマチとのあいだが狭まっていく速度のほうが速い。小学生に算数を教えるときにする計算のようだ。さて犯人に先にたどり着くのはどちらでしょう、そして、何秒後にそれは叶うのでしょう。という具合。


 脇道へと逸れていく犯人を追って方向を変えたマチを、アウト側からぐいと抜き去った私。腐っても元運動部、威厳を見せつけながら相手の背中を捉える。


 アスファルトの舗装が荒く激しくなって、コンバースから伝わる衝撃は暴力じみて加速した。雑踏は路地の一本で様変わり。日々この国で領土を広げているコインパーキングを疾走するスウェット姿は、私たちの前方一〇数メートルというアドバンテージを持っている。


「先生、頼んだよ!」


「任せろ!」


 大学受験も間近となった一月中旬。霧となっては無へと還る水と二酸化炭素の塊を吐きだしては、陸上部だったころのフォームをとり戻さんと背筋を伸ばし、顎を引いた。歳を取るごとに減っていく体力の総量も、今回ばかりは限界を超えてくれ。


 白昼と呼ぶには濃く茜となった川崎市多摩区、向ヶ丘遊園のすぐ近く。街角を削るような鋭い風に目を細めた。右見て左見てという、小学生にでもできそうな交通マナーを蹴っ飛ばした盗人は、灰色のトートバックを乱暴な手つきで掴んだままだ。駅前のロータリーにはまばらにしか人々は歩いておらず、文明は人々から外出という選択肢をどんどん奪っているのだなと実感できる。強いていえばバスを待っている人々の列だけが、集合体としての人間を表現していた。


 こんな郊外で全力の追いかけっこに興じている二〇代半ばもそうはいまい。だからといって、人は自分の足で走ることをやめないほうがいい。今日のような事態に対応できるのは、基本的には己が肉体、それだけなのだ。


 急展開と方向を変えた相手走者は、ちょうどバスが停車し人が往来するホットスポットへと身を投じた。ひらりと、捕まるまいとする木の葉のような身のこなし。老人や子連れ、連れ立つサラリーマンたちを縫って、むこう側に躍りでた。どこまでトップを譲りたくないんだとうんざりしたものの、万が一にも人を突き飛ばしてしまう可能性について考えると、こっちは人だまりを迂回せざるをえなかった。その時間が惜しくてしょうがないから、ふたたび安全マージンを取れた犯人の背中を睨みつけてやる。


「予測してないわけないだろう?」


 ロータリーをショートカットしたマチがその長身の前に立ちはだかる。


 しめたと思った。おそらくスウェットは勢いそのままマチに突撃するだろう。そうすれば常人離れした喧嘩慣れを発揮して、見事マチは犯人逮捕を実現させるはず。にやけた顔からして、マチ自身もそれを狙っているらしく。わざと両手を下げた状態で立ち、油断を誘っている。


「え?」


 マチよりもずっと背の高い女は、衝突を避けるように身を翻す。マチとしても自分がそこまで警戒されることは予想外だったのか、反応が遅れている。しかし、やつが逃げようとしている方向はふたたび私の軸線上。失った距離は確実に取り戻すことができた。


「マチ! あんたはあの子の面倒みてて!」


 ギアを一段上げるような感覚。自分の身体がいかに有機物であるのかと知覚するのは走り終わってから、今この瞬間は、それこそまさに、私は機械だ。マチからなにか返答が飛んではきたが、それすらも認識できないほど、前だけに感覚を研ぎ澄ます。


 走る、動く、息を吐いた。


 関節のあちらこちらからアラートが伝達されるものの、フードを被ったスウェット人間への距離は少しずつ狭まっている。ズキズキと痛んだ肺にも喝を入れて、最後の踏ん張りと駅を通過する快速列車に似た躍動を自分に課した。少なくとも、それを望んだ。


 水色のフードはケンタッキー・フライド・チキンの裏手の道へ飛びこんだ。自動車も通れないような小道は、追いこんだと表現するにはいくつかの道へと派生できる場所ではある。しかし、近づく背中を捕まえるには十分な距離もあるはずだ。さっき私とマチを追い越したその一瞬を横目で見ただけだったが、おそらく相手も同じく女だ。素性こそ知れないが、腐っても陸上部だった私がいくらかは有利だろう。


 フードはカーネルサンダースの横に竜巻を起こし、急旋回と角を曲がる。ほどなくして私も同じくターンを描き、特有な油の匂いにむせかえった。


「……え……?」


 もう目と鼻の先という距離にまで迫っていたスウェットの背中は、路地に開かれた視界に現れることはない。見えていた背中は、瞬時に姿を消した。曲がり角はさながら手品師のようだった。ただ、暗い路地が目に飛びこんで。


 唐紅という濃さになりつつある陽には、熱が少し足らない。冬のさなかに吹いた風が、唇を乾燥させていく。


「……いないの?」

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