演劇の主役、チカさん
誰かが手を引いてくれた。といっても服の裾を引っ張るような形だったけれど。どうにもかわいらしいことをする。暗闇に目が慣れてくると、相手が鹿島くんだと気がついた。
「もう、見えるよ」
「ああ、じゃあ、あの端の席で。二つ空いているところっす」
え? 観ていってもいいの? 尋ねようと思っても、彼は自分の出番があるからと舞台裏に下がってしまう。かなり前の席をとってくれて、なんだか申し訳ないな。おずおずと、舞台だけが明るい椅子が立ち並んだ世界に腰かける。オーディエンスでいっぱいになった講堂……とはいかない。むしろ空席が目立つほど。けれど、私はそんなものを観にきたのではない。彼女が何度も私に見せてくれた物語を、実際に演じて、見せて、駆ける姿を観にきたのだ。
そう、初めから私たちにはそれだけしかできない。観ることしかできない物語は、ピアノ弦より張りつめた彼らの緊張から、豊かに踊る彼女たちの表情から生まれていく。この瞬間にも、人と人とがそこにいることで、ただそれだけでストーリーは紡がれる。そこにいるだけでいい。そこに、いるだけでいいのだ。
「時間が戻ってたまるか!」
大きな声だ。チカさん。
上演は滞りなく進んだ。途中セリフが飛んでしまった子もいたらしいけれど、観ているこっちが気づかないようにフォローが入ったらしい。終盤、タイムトラベルから帰る主人公一行が、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』よろしく雷の力を利用する直前。チカさんはタイムマシンと化した小さなポッド状の装置、もちろん板でできたハリボテの裏へと滑り込んでいく。音響装置が唸りを上げ轟音を作り出し、物語は現代へと戻っていく。
彼らが元の世界に戻った。タイムトラベルによって知った、自分が直面している問題を打開する術を駆使しながら、その後も日常を生きていくという描写。行って帰ってくるという、物語の基本構造を守った脚本は、観客の気持ちもソフトランディングとばかりにコントロールしてくれる。
「別に未来のことを知ったわけじゃない。過去のことに、少し詳しくなっただけ」
時間旅行なんて案外たいしたことでもないのかもしれない。そう思わせてくれるというのも、個人的には好きなオチだった。この作品では過去も未来も現在も、どの時間の出来事だって変わりはしなかった。旅立つ前と寸分違わない世界に戻ってきた、彼らの心だけが変わっていた。非日常的な体験なんて、ほかの人にとっては些細なことでしかない。そんなメッセージが込められているような気もするし、タイムトラベルは無理だとしても、私たちの日常もまた、少しの非日常を孕むことがあるのだという可逆性。不可逆であるはずの時間がそうでなかったように、この演劇での「物語」とは、そうやって世界に開かれている。
万雷の拍手が講堂に響く。午後五時を示した時計が見えるくらいに照明が灯ると、さっきまで壇上にいた演劇部のみなさんは劇場に降り立ち、アンケートに協力してくれる人々に鉛筆と紙を渡していった。また問題が起きたりはしないだろうかと、気が気でなかった私もホッと一息をついた。隣にあった空席はついぞ埋まることはなかった。マチはこの演劇を観られなかったということだろうか。
「こんな絶好の機会を逃すはずないでしょ」
真後ろから声がかかったのには声も出たが、呆けて立ち上がるタイミングを逸してしまった私にはちょうどいい起爆剤だった。どうやら知らぬ間に講堂へ滑り込んでいたらしい。足音ひとつ聞こえなかったのは、こいつの足が人間ではないものでできているからか、あるいはこっちが舞台に首ったけすぎたからか。
「いい演技だった。いいね、いい。高校生の演劇部の必死さったらないね。青い」
「あんたは何様だ」
クスリと笑う。まあともかく、マチは無事だということが分かればひとまずはいいか。あの男子生徒たちは大丈夫だろうか。私だって軽くではあるが突き飛ばされた身なのだから、むこうの心配までしてやる必要はないのかもしれないが……。
「ポケットから手当の道具は置いてきたよ」
「なるほど、それはなによりだけど早くズラかるほうがいいかもね」
「まあね。でもその前に見届けないといけないからさ。ね?」
マチは自分の隣に座っている女子生徒に声をかける。ちょっと待てというより先に、バカはその子の手を引っ張ってアンケート用紙を回収しているチカさんのところに歩いていく。
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