マチは次の日、塾を辞めていた。
「……じゃあ、新しい恋人とかも、作るつもりはないの?」
「相手がいれば作るかもね」
「だからぼくでいいじゃん」
瞬間沸騰だった半面、指数関数的に下がっていくボルテージ。心の底から怒っているのではなく、今のだってコミュニケーションの一部だ。睨み合うような、喧嘩するような気のつかいかたが、世界にないわけでもあるまい。
「クソガキが、もうちょい口が上手くなってからにしなさい。あと頭もよくなりなさいな」
私はお前の先生だ。と腰に手を当てつつ、偉ぶっておく。この態度でマチも休戦を受け入れる。肩をすくめ矛も収めた。
「ま、結果として先生よりも全然いい大学に行っちゃうかもだけど」
ため息ひとつ。マチが吐いたそれなんてはじめて聞いたんじゃないだろうか。言っていることと態度が噛み合っていないのは、一過性のものなのか原因があるものなのか。私だってだれだって、こういう故障エスカレーター効果が会話で起こってしまう日はあるものだし、大きくとらえすぎるのも問題だろうか。答えはない。
「行ってもらわないと困るわよ。あんなバカ大学」
今でもあの大学はオンライン授業を主体として、ほとんどの学生が通学することなく、廃墟じみた夜を過ごしていることだろう。その手のマニアからすれば、写真を撮りたいと思わせる風景がしばらく続くはず。
「知恵比べだね、先生」
マチは手すりへと足をかけ、まっすぐに立ち上がった。危なっかしい光景だ。バランスを取ろうともしない。自分が足を滑らせたり、あるいは突風に襲われたりするだなんて想像もしていないのだろう。髪を散らす風はたしかに吹くが、それがどうしたとコウモリは剥きだしとなった足を反転、振り向いた。
「たぶんぼくが勝つと思うけどさ、意気込みはある?」
月がマチの背中を照らす。必然的に陰る顔は、笑っているともつき放しているともいえない。長夜は見目麗しい月下美人を演出していた。風も雲も、それを邪魔しない。世界から祝福されているような姿。顔、手、脚。
「……とっとと寝ろ、クソガキ」
へいへいとベランダを伝い、パンダは自分がいるべき檻へと着地した。となりの部屋。あいつが生活をしている空間。私が入りこむことのない、壁で隔たれるむこう側の世界。こっちも戻るかと踵を返す。そこでひと言、マチはうしろ髪を掴んでくる。
「ねえ、名前で呼んでよ」
「へ?」
こっちを見ていない。もうやつの半身は屋内へと吸いこまれていた。
「台風の日、ぼくの名前を呼んでくれたの、嬉しかったなぁ」
サッシを滑った窓が完全に閉じた音。言葉の名残を消し去った衝撃は、私の鼓膜まで到達する。不穏をありありと見せつけるマチ。なにかしでかそうとしていることは間違いないだろうが、一方的に悪だと決めつけるのも違うだろう。あの男の言っていたこと、忠告の手紙。信じるのはそっちではなく、マチと過ごしてきた私の直感なのだろうから。
明日にはマチの世界史を担当するはず、出勤してすぐに予習をしなくてはいけない。その分の給料が出てくれるから文句もないが。門外漢にやらせることじゃないだろうに、大学受験の指導なんて。まあ愚痴ってもしかたがない。マチがなにか思いつめていることの正体に気を配りながら、私のやるべきことをやるのだ。
「……寝るか」
カトレアも、妥協されてしまった絵も、そうですねと笑っている。
マチは次の日、塾を辞めていた。
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