あいつの声、もう忘れてきているな。
「どういうことですか!」
尋ねるつもりもないような、そのまま非難が口から飛んだ。マスクの隙間からさぞ飛沫も舞ったことだろう。構っていられるわけもない。まだ生徒も来ていない昼下がり、塾長の机を思いっきり叩かせていただいた。三〇代中盤は眼精疲労を揉みほぐしてから、私の顔をじっと見つめる。
「イズミ先生、どうもこうもないんですよ。ぼくだって引き留めはしましたよ。ここまでがんばってきたんだからとか、金銭的な要因がないのなら大卒になっておいて損はないよとか。ありきたりですけど、大多数の人間にとっての間違ってないことを言いました」
そんなの当たり前だ。経営と営業があんたの仕事だろう。実際に手と口を動かして授業をするのが私たち講師なんだから、結果ではなく過程を評価するのは少なくとも塾の世界観には合わない。せめてあいつを引き留めてから、自分の行いを正当化してくれ。
「しかし、契約の主導権がむこう側にある以上、判を押されて退会を申請されたら受理しないわけにはいかないでしょう。というより、それをしなかった場合、法にすら違反することになるんです。言わなくても分かっていただけるでしょう?」
いつもなら私にたいして妙な目線を向けているはずの彼も、いわれのない問責には意義を唱えたくなるものらしい。この男の自我らしい自我をはじめて見たものだから、一瞬気圧されてしまったというのが本音だ。それでもどこかに突破口はないか、唐突なマチの判断を巻き戻す方法はないだろうかと思考する。しかし、彼の部下であり同じく契約下であいつと関わっていた私には、どのみちできることなんてあるはずもなかった。
「……すみません、ちょっと熱くなってしまいました。失礼いたしました」
考えれば考えるほど、私の騒ぎかたが子供っぽかったなと反省を余儀なくされる。癪ではあるが、塾長との関係をこれ以上悪くするよりもいいだろう。上司との付き合いかたを間違えるほど、無能でもないつもりだし。
「いえ、それだけ思い入れを持っていただけたのに、こちらとしても申しわけなく思います。世界史も無理をしてみていただけたのに……。ぼくの力不足です」
会話という飛行機が墜落しないよう、互いにフラップを出し合っては気持ちを落ち着かせていく。今日も肩を痛めて持ってきた『詳説 世界史研究』の使い道はどこにあるんだか。高校生で世界史を選択している生徒もほかにいるわけでもないし。もうお役御免ということだろうか。実感がまるで湧かないし、今にもあのバカが教室に戻ってきて「びっくりしたー?」と大笑いしそうなものだと空想が廻ったが、残念ながら現実は妄想よりも堅なりといった様子だった。中学生の定期テスト対策なんて即時対応できるから、不慣れな新人講師のサポートまで授業と同時にこなせてしまうから、この日からの業務なんて楽になってしかたがない。世界史ひとりが消えただけで、こうも円滑な業務ができるだなんて。やつが二年間の休暇を取っていたというのなら、世界史を教えていた二年間、私の労働はずいぶんと過激になっていたわけだ。まあ明日にはマチが帰ってくるかもしれないし。そうなったら先輩講師としての力も、定期テスト対策の戦力としても、まるで機能しなくなるのだろうな、私。
心配は取り越し苦労に終わり、世界史の授業は週末になるまで一回も訪れることはなかった。金曜日にはテストも片付いてくれたから、冬期講習前のエアポケットとして少しの間、塾には中だるみの風が流れ、換気のために開いた窓から出ていくのだった。
インターホンを押したのは昼。土曜日は半分を過ぎてなお、いっこうに気温を上げることはなかった。やる気のない太陽に代わり、私が熱を持ってこのドアの前に立っていることを、マチは予想しているだろうか。していないとしたら舐められたものだ。もちろんあいつと私の関係は、塾の生徒と講師であるというだけ。塾を辞めればただのご近所さんに違いない。しかし、そうやすやすと関係が切り替わるのなら、人間社会はこんな複雑怪奇を描きはしない。うっとうしいだろうが、マチひとりのためにいろいろと骨を折ってきたのだ。訳やらなにやら、聞く権利くらいあるはずだ。
「……それにしても……」
出てこない。休日の昼だ、どうせ家でゴロゴロしているはずだと思うのは、私がインドアな質をしているからだろうか。しばらく時間をおいてからふたたびの呼び鈴。ドアのむこうでは物音ひとつが立つこともなく、郊外に響くエンジン、犬の鳴き声、遠い笑い。待てど暮らせどとなりで暮らす人間は現れない。のぞき穴からこちらを見ていたりしないだろうか。じっとその点を見つめてみるも、抜き足、差し足、それらなし。
「マチー、いないのー?」
となれば物理的にドアを叩いてみる。私だと分かれば出てくる可能性だって捨てるべきじゃない。『デトロイト・ビカム・ヒューマン』のコナーになったような気持ちでもう一度トライ。開けろ、生田緑地のクライマーだ。
沈黙のマチ。レイチェル・カーソンも驚くようなだんまりには、さすがにやつの不在を認めざるをえない。私の部屋となにも変わらないネズミ色のドア。番号がひとつ違うだけなのに、あまりに分厚い壁だ。
「……また来ればいいか」
気を張っていただけにあっけない。親御さんが出てきてもいいようにと、職場以外じゃめったに着ないブラウスとスラックスで出てきたのもあいまって、疲労感が肩にのしかかった。しかしながら、このまま部屋に戻って部屋着にお色直しというのも気が引ける。というかそれこそ本当にバカバカしい。だとすれば、目的のほうを変えてしまえばいいのだ。私は今日、ちょっと出かけるために人目に恥ずかしくない服装に身を包んだのだ。お出かけだ。そうしよう。
「双子葉類」
声に出してから愕然とする。ダジャレともいえないような口遊び。ボンクラ美容師なんかといっしょに住むんじゃなかったな。失敗した。話せば話すほどつまらなくなる恋人と評したのは、マチと話しているときだっけ。自分で言っておいてなんだが、なかなかいい表現じゃないか。
「いい表現ジャマイカ……」
って言っていたあいつの声、もう忘れてきているな。
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