めっちゃ楽しみなんですよね、『アンデッド・アリス』


 マチと出会ってからおおよそ二年。そのあいだ、やつの親とあいさつを交わしたことすらなかった。あっちから話題を出してきたこともないし、生活音という点ならマチの分すらまともに聞いたことがない。あれだけ喋るやつなのに、家では無言というのもおかしな話だ。けれど、そこにどう触れてよいものかと考えたって、マチ自身の口からなにかが語られないかぎり、踏みこむべき案件ではないと私は考えていた。塾の面談にも姿を現さず、マチ本人と塾長のみで講習の話が進んでいくことなんて茶飯事だったし。きっと今回の件も、あいつひとりの判断であるのだろう。貧乏女こと私とまったく同じ部屋を借りているとはいえ、あそこまで金払いがいい家庭の金脈がそう簡単に尽きるとも思えないし……。


 向ヶ丘遊園の駅に着くまでしていた考えごとは、降りたシャッターを目にすることで立ち止まった。夏の終わり、雲は今よりもずっと遠く、風も優しかった季節から静けさを保っている元花屋。磔刑にかけられていた閉店を告げる紙も、台風かなにかで吹き飛んでしまったよう。古いほったて小屋を思わせるほど小ぶりな建物は健在でも、おそらくは郊外らしくなんらかつまらない店が入るか、あるいは土地ごとまったく別の用途に使われて終わるのだろう。立地的に空き地になることもないだろうが、コンビニにするにも狭い場所。それが、この数ヶ月手つかずのままこの場所にシャッターが降りつづけている理由なのだろうけれど。


「ここでムギちゃんと会ったんだっけな……」


 あの一件も、もはや懐かしい。この元花屋ととなりにあるスーパーのあいだで泣いていた幼稚園児を保護し、山の上にある家にまで送り届けたあの日。足が痛くなるくらい歩いた、思いだすだけでシャワーを浴びたくなるような記憶だ。それでも、寸分の後悔すら浮かんでこないのだから、恋人の死とは対照的な思い出。この花屋跡が取り壊されでもしたら、夏の終わりのさすらいも、少しずつ脳味噌からこぼれ落ちてしまうのだろうか。郊外の街並みが移ろっていくのと同じくらいのペースで、ふとした瞬間、忘れているものに気がついていく。人生なんてそんなものと、流してしまうにはあまりに惜しい。自分でもできすぎていたと思うあの一夜。なんてったって、善行をはたらいたと自負しているだけでなく、証人だっていたのだから。これもまた時間が経ってから、ヒグラシの一件の彼女が教えてくれたのだったな。


「あれ? 先生じゃん」


 私の勤めている塾の生徒が、ムギちゃんへ手を差し伸べた瞬間を目撃していたという事実を。


「へ? あ、ああ、トモエちゃん」


 スマホをいじり、音楽を止めたらしい中学二年生。コードは繋がっていない。髪の毛で隠れているが、ブルートゥースイヤホンをつけていることだろう。教室以外で遭遇したのはパーカーなやつとくら寿司を貪っていたとき以来、今回で二度目だ。あのときとそう変わることのない長い花のスカートに黒タイツ、けれど、いくぶんか寒さに強くなった上半身のシルエット。


「ちょうどよかった先生」


 にっこり。気を許した人には見せるのだという朗らかな表情。この子も最初はどう扱っていいものかと困った、無口な生徒だったのに。英語ととくに苦手な社会で通塾しているから、私が担当することがとっても多かった。興味があることが少し被っていたからこそ、ある程度喜んだ声を交わしてくれるようになったのだ。


「お時間があったらなんですけど、道案内してほしいんです」


 顔まで喜んでいる。めっけものという顔だ。


「稲田堤のほうにあるゲオまで!」


 この子、地理、地形図とかの問題苦手だったなぁ。今二年生だから歴史ばっかりやっているけれど、一年生のころはその方向音痴さに苦しめられたものだ。私のヒントをことごとく無に帰していくトモエちゃんは、街を破壊する怪獣のような思考か、爆撃機の軌道で道筋を描いたりしたものだ。


「……私も行ったことないけど……あそこ、遠くない?」


 結論からいうと、片道三キロという距離がグーグルマップの出した試算だ。往復ならまだしも片道って……。と漏れそうになったけれど、ぐっとこらえてバスで短縮できないものかと調べた。が、残念ながらまともな時短ルートは存在しない。親が看護師なのだという彼女は、できれば混雑した乗り物は避けたいとのお達し。なるほど、個別のニーズに応えてこその個別指導だ。私もその先兵として責務を果たすべきだろうか。


「それに、一時間も歩かなくて済むわけじゃないですか。すぐ着きますよ」


 お、おうそうだな。さすが現役中学生はナチュラルに身体感覚の違いを教えてくれる。大人として恥ずかしいことこの上ない。こういう瞬間には運動不足をどうにかしないとと思う。まあ、実際なにかするかと言われれば、返答に困ってしまうが。


「でも、なんでゲオなの?」


「DECO*27の新譜を予約したくて」


 それこそ九月にそんな話をしていた。彼女愛好のボーカロイドコンポーザー、私が中学生のころから活動をしている大ベテランにもかかわらず、いまだに思春期女子のハートを掴んで離さない楽曲を発表しつづけている彼。田舎のギークとして生きていたころは、『モザイクロール』を聴かない日のほうが珍しかった。


「ああ、前に言ってたやつね。でもそれなら、駅前のツタヤでもいいんじゃ……」


 いやーと頭を掻く彼女。


「特典が違うんですよ。どうせなら自分の好きなものが欲しいじゃないですか」


「ああ、そういうことね」


「レンタルとかも金銭に優しいですけど、やっぱないですよ。だって借りたものは返さないといけないじゃないですか、嫌でしょそんなの」


 たしかに借りっぱなしはよくない。圧倒的に凡庸かつ普遍的な倫理を発揮している彼女。ツタヤにおける質量保存の法則を打ち破るため、あと好みの特典のため、容赦なく片道四五分をかけるというのだから、意志力の高いこと。宿題でも同じようなやる気を見せてくれまいか。


「めっちゃ楽しみなんですよね、『アンデッド・アリス』」


 なるほど、新譜のタイトルはそんな感じなのか。ゲオへ涙の旅路が始まったアスファルト、まずは府中街道まで出ないと話が始まらないと舵を切り、グーグルの提示したルートに途中までは従うこととした。時間潰しという点ではこれ以上になく健康的だし、持て余した時間で考えごとをしても、事態が好転するはずもない。


「あれかな、『乙女解剖』が入ってるアルバム?」


「いやいや、それは去年出たアルバムに収録されました。リミックス版なら今回のアルバムにもありますが」


「ああ、オマケ的な感じ?」


「それがですね先生、もはやそれはオマケってレベルじゃないんですよ。本人のリミックスってわけではないですけど、そんな権威主義が吹き飛んじゃうくらいの最高改変でした。ダブッぽい感じって言えばいいのかな、リバーブ、ディレイ? 的な残響もめくるめく感情を吐露する歌詞といっしょになるともう堪らないんですよ」


 ハチの巣をつついてしまったなぁ。もう冬眠の時期だからと油断していた。饒舌になったトモエちゃん、しかも授業中でもないときたらもう止まることはないだろう。されるがままに言葉をぶつけられながら、道を間違えないように心がける。


「いやー先生、申しわけないんですけど、ちょっと語ってもいいですか?」


 去年だか一昨年だかに界隈で大流行りした楽曲、『乙女解剖』についての解説が本格的に始まっていく。これまでのは前座だったのかとうんざりしないこともなかったが、まあ聞くだけタダだし乗っかっておこう。映画と比べると音楽の見識は高くない私だ。もっとも、その映画にしたってネットフリックスとアマゾンプライムでディグったり、時間があれば新宿の小さな映画館におもむいたことがあった程度だ。緊急事態宣言以降、なんとなく足が遠くなってしまっているが。ともかく、そこまでの興味が音楽にあるわけでもない私は、アップルミュージックで人気がありそうなもの、なんとなく気になったアルバム、映画のサントラなんかを落として聴いているだけのやつだ。ライブやコンサートにも興味のない、工業製品としての音楽を嗜んでいる、純粋で愚かな消費者。


 だから、本当に好きな音楽があるのだという人の話は新鮮に聞くことができたし、感情に任せてなにかを賛美するという声は、よっぽどなことがないかぎり不愉快にはならない。他人が楽しんでいるのをいっしょに楽しむくらいの余裕は、こんな寂しい女にだってあるのだ。他人に共感することが、あるいはそう見せかけることが、社会基盤の底辺にはあると信じていないなら、こんな仕事やってない。


「オリジナルとリミックス版で大きく違うのはギターの本数なんですよ」


 それそれ。


「リミックス版で際立っている静と動の演出が生きるのと死ぬことに重なっているのは常識で、大事なのはこの曲にとってどちらのほうが安らぎたりえるかということなわけです」


 どしたどした。


「というか、恋における心臓の高鳴りと生きるための脈動をいっしょくたにしている歌詞ってヤバくないですか? 危険ですよ、キケン! 恋が破れたら死ぬし、でも関係に慣れきっても死ぬんでもう詰んでますよね。自分が死んででも楽しいことしたいって、そんな人間どうやったら描けるんですかね?」


 よいよいよいよい。

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