トーマも『オレンジ』で言っていた


「ところで先生はどんなボカロPが好きなんですか?」


 ちょいと休憩。顔で語ったトモエちゃんは、私に手番を返してくれた。苦笑いが出ないこともないが、まあ簡潔に答えておくとしよう。どうせ彼女に一〇年も前のカルチャーを説いたところで成果は上がらないのだろうし。


「wowakaとか……」


「ああ、『アンノウン・マザーグース』の人ですね」


「うん、まあ、そうだね」


 まず思いつくのがその曲なのか……。思春期という風邪をこじらせていた私は、そんな音質のいい曲聴いていなかったよ。まあ共通認識のある名前を出せただけよかった。もう亡くなってから二年近く経とうとしているし、どんどん過去の人として忘れられてしまうのだとしたら悲しい。


「めっちゃ早口で、とにかくBPMが速いっていうイメージですねぇ。昔のボカロ曲って、早口でガチャガチャしているのが多くないですか?」


 中傷するつもりはなく、彼女の語彙ではそうとしか表現しようがなかったのだろう。ありのままの疑問をどう処理したものかと頭を悩ませたが、とりあえずはオルタナティブを提示しておくこととしようじゃないか。もちろん、一定以上の共感をしながらだが。


「まあ、その流行りを作ったのがwowakaってところは否めないかな。でもバラードで名曲がなかったわけじゃないよ? トーマって人もだいたいの曲はBPMすごいことになってたけど、『オレンジ』っていう、今はいない人に歌った愛の曲とか書いててね……」


 驚くくらい懐かしい名前だ。口輪筋がおひさしぶりのご指示でしたねと感嘆を禁じ得ないほど。大学に入る前、高校生くらいのときに追っていたボカロP。彼もまた活動をしなくなってしまった。私が好きになる人は、みんな行動を辞めてしまうという呪いにかかっているのだろうか。笑えるな、笑えるよ。「君のいる世界で笑ったこと」ってトーマも『オレンジ』で言っていた。


「昔にもいろんなボカロPがいたんですね……」


 私のセンチメンタルを察してか、彼女も声色を一段落として対応してくれる。私たちの雑談はボーカロイドミュージックをはじまりとし、オタク、カワイイカルチャーについて花が咲いていく。トモエちゃんが中野にあるバー・ジンガロに行った話や、私が渋谷のつくみず展でへったくそな絵を寄せ書きスペースに描いたエピソードなんかが展開された。




「ここらへんで曲がっておこうか」


「え? ここでですか?」


 府中街道のさなか、路地に入ってルートを変更しようと提案だ。もうずいぶんと歩いてきたけれど、一五分もすれば着くような距離にいる。ちょっとくらい遠回しになったって、構わないじゃないか。


「え、でも帰り道を覚えておきたいですし、大通り沿いに行きましょうよ」


 なんでわざわざ道を逸らす必要があるんですか? ともっともな疑問。まあそうだよね、でも誤魔化せたら押し通ってしまおうかと思ったのだが……。木枯らしが笑うように広い道路を過ぎ去って、暮れはじめた空も子供っぽいことをするなと睨んでいる。


「あ……そうだね。へんに変えることもないか……」


 大丈夫。前を横切るだけならなんてことはないはずだ。平常心で、なにも考えないで……。歩く、歩く。そして見えてくるのは白色の看板。見たことのある文字。はじめてこれを目撃したのは、大学の友達に勧められたからだったな。ひとり暮らしを始めてから住む場所も変わったこともあり、ちょうどいい美容院を紹介してもらったのだ。それからは、彼と付き合うようになるまで、通いつづけたお店。


 スローモーションに感じられる風景も、決して時間が静止しているわけではない。確実にその場は近づき、ガラス張りの店先と私が平行に並ぶ。心臓が跳ねるようだが、これはまったく恋ではなく、また故意にそうしているものでもない。どうしようもないのだ。この場所だけは。


「先生、ちょっと待ってください」


 突然、トモエちゃんの足は止まった。となりを行くこっちもつられてしまったが、はっきりいって勘弁してほしい。長居するにはいささか遺恨がありすぎる座標だ。でもあまり動揺していることを悟られてもいけない。変に騒いで中の人間から注目を集めるなんてもってのほか。寒さとは裏腹に、ブラウスの内側に、ジワリと不愉快な汗が広がる。


「なに? どうしたの?」


 早く行こうよ。


「この人って知ってますか? 五年くらい前にミリオン出したPなんで」


「いや、知らない」


 さあ、歩こう。


「よく見てくださいよ」


「知らないんだってば……」


 ダメだ、声が低くなった。明らかに彼女の顔が引きつる。視覚と脳内の情報が氾濫して、どの順序で、どう手をつけていいのかが分からない。呼吸も浅いし、少しクラクラする。顔に熱がこもるのを嫌でも感じながら、それでも取り繕うために笑う。笑え。


「いや~もの覚えがなるなんて、歳かな~」


 年下にしちゃいけないギャグか。あははと空気みたいに乾燥した私たちの笑みは、忍び寄っていた影に、その声に粉砕された。


「今日もありがとうございました。またお待ちしておりますね」


 握り潰された、壊れた。


 こちらこそと愛想を振りまいたご婦人が横を縫っていく。店からのぞいたこげ茶のショートカットさんは、お客さんの背中を追う過程で私たちを視界に入れる。とっさにうつむくべきか、変に動くと注目されてしまうか。迷っているあいだに、彼女は脳内の認証アプリでこちらの人相を読み取ってしまったが。


「……イズミさん……」


 見て見ぬふりをしてくれるのではないかという、最後の望みもついえてしまった。観念した私は、食いしばった歯を元に戻そうと必死になりながら、美容室の店員と向かい合う。路上、冬のはじまりは選挙カーのように何度も叫び、ついにはとびきりの冷たさを私の心に流しこむ。バスが一台走った。巻き起こった小さな竜巻は、他人事とは思えない。


「……おひさしぶり、ミチルさん」


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