いろんなことを忘れさせてあげる
「……その辺にしとけ」
そこでチョップをでこへ。
「なんでよ~レモン味のキス信者な生娘でもあるまいし~」
若干の抵抗を見せたマチも、攻防を続けるうちに望み薄と離れていった。口はへの字に曲がり、素直じゃないねと悪態まで。胸のざわめきの正体について考えて、あの日のお告げを反芻させることによって在処を探る。
「……あんた今、なにを考えているの?」
「先生のことに決まってんじゃん。好きな人の前にいるんだよ?」
「嘘をつかないで」
「ついてないよ。どうしたの?」
こいつは近いうち、人を殺そうとしている。あの男の言ったことをそのまま無視する気にもなれなかった私は、マチの言動には注視してきたつもり。今日まではこれまでと比較して特段おかしなところも見当たらなかったが、今日のこいつは明らかに度が過ぎている。いよいよ陣痛が始まった妊婦も、こんな気持ちになるのだろうか。母さんに聞いてみるのも一興だろうが、残念ながらいまだに着信拒否を設定したままだ。
「やれやれ、もう一年が経とうっていうのにね」
不敵に笑うマチ。
「ねえ。今からこれ死ぬよ。見てて」
空になった紙コップを潰していく。夜の闇に溶けていきそうな上半身と、浮いてしかたがない下半身。白と黒とを混合している一八歳は、一面に亡骸が納められている世界へ、ゴミを放り投げた。
「……バチ当たりなことしなさんな」
これには少し驚いた。こいつがポイ捨てなんてするところ、はじめて見たから。
「墓場への軌道、ちゃんと見た?」
ニヤリとコウモリ野郎。寒気がしたのは寒いからということにしておく。一一月はポッキーイベントを乗り越え、いっそう凍てつく風を拗らせた。奇行をはたらいては他人に諫めてもらいたいという年頃でもないだろう。怪は服を着て、ついにはティーンエイジャーの身体を乗っとりでもしたのか。
「道徳の授業でもやったほうがいいか?」
「あいにく、学校なんてずっと行ってないからね」
なんでそんなに楽しそうなんだか。これといって背後の事情を感じさせないほど、あっけらかんとマチは言う。当たり前になってしまった日常は、見慣れている服装のようにどうってことはない。私は、こういうマチしか知らない。制服に身を通しているこいつは、おそらくは一生お目にかからない。
「二年間の休暇だね……」
もうほぼ三年になるだろうが。なんてツッコミをしてもしかたがないだろうから、空になったコップを私も潰した。墓場への軌道は描くわけもない。きちんとゴミ箱まで埋葬するつもり。墓場のむこう府中街道を、生き急いだ二輪車がかっ飛んだ。くたばったって知らないぞ。忠告を聞いてくれるわけもない、となりにいるバカに、言葉ひとつも響かせることができないんだから。道徳の授業で人が変わることがないのと、同じしくみだ。
「それも、大学に合格したらおしまいだぞ」
「先生にしては珍しく、受かるの前提な物言いじゃん」
「希望的観測に決まってんでしょ」
とタテマエを述べておく。しかしながら、マチが持ってくる模試の結果をかんがみれば、滑り止めにすら引っかからないということは、まずありえない。所得の問題が表面化しやすい受験回数なんかも、それなりに太い家に支えられたこいつは、上から下まで六つの大学に願書を出すというのだから心配もないだろう。
「まあでもさ、大学に行けばぼくらが付き合っても問題ないよね?」
なんでそうなる、ちょっとしつこくないか?
「だって先生、寂しいんでしょ?」
決めつけてかかるマチ。この世界に寂しくない人間がどれだけいるのか考えたことはあるのだろうか。どんな身分でも、となりにだれがいようとも、愛した人に撫でられていようとも、胸の奥へやすやすと手を差しこむのが寂寥というものだ。こんな質問、無内容にもほどがある。
「そんなこと言った覚えはないわよ」
「わざわざ口に出す人こそめったにいないよ」
天馬空を行くとばかり、私の感情のあれこれを知ったように振舞う。マチはどうやっても自説を曲げるつもりはないらしく、どうしても私と恋仲になりたいと押してくる。
「大丈夫だから、いろんなことを忘れさせてあげるよ。だからセックスしようよ。今までで一番気持ちいいやつあげる」
「忘れさせてあげる……ね」
それが私にとって嬉しいことなのか、それすらもう、よく分からなくなっているな。
「私としては、あんたが単語やら漢字やらを忘れないかどうかのほうが重要だけどね」
イロコイ話を深めていきたいマチの願いを一刀両断。ムードを作っていきたいのかもしれないが、あんたに迫られたところでときめきもクソもあるかっての。
「なんでそう誤魔化すのさ」
語気を若干荒く、反射的にこっちも身構えてしまう。マチはまっすぐにこちらを見据え、怒りにもいた情感を投げつける。
「ぼくは先生を、なんとかしたいんだ!」
なんだってキレてんだよこいつ。反撃とばかりに私も飛ばす。
「こっちがあんたをなんとかする役目でしょうが!」
とっさに怒鳴り返しているあたり、私も気を許したもんだ。マチだって気がついていないわけでもないだろう。あっちから渡される〝お誘い〟関係のワードに、私はてんで反応しなかったのだ。なにを考えて今さら押し切ろうとしているのかは知らないが、ともかくはイエスと言わないことだけは私のなかで決まっているんだ。
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