先生とぼくが恋人関係になれば


「ねえ先生? ちょっと話さない?」


 スケッチも終わり、というか妥協したタイミングを見計らってか、ベランダにはコウモリが一匹。いつまでたっても同じ格好、黒パーカーに白い脚がだだ洩れという着こなしを崩さないマチ。もう一一月も中旬、チカさんの文化祭へ行ったときだって寒かったのに、あれから一ヶ月も経とうとしているんだぞ。


「はあ……べつに構わないけど、家の中じゃなきゃ嫌よ。寒いし」


 一日働いてきた身体なのになぜ、さらなる鞭を打たれねばならないのだろうか。そんな必要、ない。


「そんな固いこと言わないでさ、いいじゃんか。外の空気を吸うのだって大事だよ」


 そんなの帰り道で死ぬほど吸いこんできているっつーの。文句は宙に漂ったまま、受取人不在の手紙となってしまう。マチがこんな風に呼びだすときはほとんど、あの手の話題が絡んでいるからおもしろくない。


「まだ絵を描くから」


「嘘言わないでよ。どうせシャーペンで形をいびつに模倣して、なんとなく影つけたらおしまいじゃん。いつまでたっても上手くならないんだからね、先生」


 だったらそっちはどうなんだか。才色兼備なマチのことだから、そつなくこなしそうな気もするが、クラス旗のときには大差ないお絵かきスキルだったじゃないか。


「そのうち見返してやるわよ」


「楽しみにしておくよ」


 チカさんの一件では珍しく私たちの利害は一致してくれたものの、残念ながら日常に戻ってしまった今は、構ってほしいマチと乗り気ではない私だけが残ってしまった。郊外の夜、墓場に面したベランダは冬だというのにジメジメしているから、夏の終わり、ムギちゃんの家を探した日のことも思いだされた。


「……で、なんの用?」


「いやさ、とりたてて用はないんだけどね」


 いつもの調子。このあと始まる愚痴はこのあいだ寝た相手が首絞めるの下手糞だったとか、そういうものだ。


「マジで爪長い女で触るのも下手だと地獄見るから気をつけたほうがいいよ先生。血、血出たよ」


「はいはい」


「じゃあ、何十年か前に多摩川が決壊して、民家が流された話とかをセフレのお姉さんに聞いてきたんだけど、興味ある?」


「ないない」


 マチの分も淹れてやった紅茶を一口。紙コップで提供しているのは、そのほうが温かさは手に伝わってきやすいから。コンビニコーヒーをついつい求めてしまうのは、手元が寒いときと相場が決まっているんだ。


「そんな風に聞き流さないでよ。生徒の言葉を聞くのも先生の役目でしょ?」


「この時間に給料が発生するのなら聞いてやろう」


 フフフと笑みながら、熱に唇を焼かれて紅茶もあふれる。スウェットにポタリとシミが広がっていった。非常にみっともない。


「じゃあはい。これでいい?」


 こちらの冗談を真に受けてか、マチは手元から福沢諭吉を数人召喚してはつきつける。おいおい、こういうユーモアが分からないやつでもないだろう。不意打ちを喰らった私は、またカップを傾けそうになってしまった。一年以上前、恋人がまだ生きているころ、よくこのバルコニーにとまっていたスズメも、同じようなリアクションをするんじゃないだろうか。


「……そういうことじゃないでしょ」


「あっそ。じゃあさ先生、ぼくたちはどういう関係性だったら他愛もない話を、胸を張って繰り広げることができるのさ」


 熱さをものともしないで紅茶を飲みほしたマチは、悴んでしまったらしい手を揉んでいる。足のほうが寒くないのだろうか。人間なのかどうかすら怪しくなってきたパンダに、怪訝を注いでしまう人間こと私。


「べつに今までだってさんざん喋ってきたでしょう。なにかを変えようとしてばっかりなのは、人生の経験が浅い証拠よ」


「人生なんて変化の連続だって言葉もあるはずだけどね。先生は恋人さんにいっぱい愚痴とか聞いてもらっていたんじゃないの? あの人がまだ生きているときはさ」


「そりゃ……多少は、ね」


 大なり小なりというには大に寄っているような気もするが、死人に口はないのだから許されたい。まあ、許してくれないということすらないのだから、張り合いがなくて困るのだが。


「じゃあさ、先生とぼくが恋人関係になれば万事解決だよね?」


 一事が万事こいつの言うことはめちゃくちゃだ。冗談を打ってきたかとせせら笑い、アールグレイ的な飲み物を身体へ入れる。さてどんな嫌味で返してやろうかと企んでいると、マチがパーソナルスペースに侵入するよう、ステップを踏んだ。


「ねえ? 悪い提案じゃないと思うんだ」


 やつも私も、すこぶる体重が重いというわけではない。ふたりの合計値は重い男性と比べたらトントンかそれ以下という数字だろう。けれど、急激にマチがこちらに体重を預けてきたものだから、ちゃちな造りをしているバルコニーはうめいた。さっき歩いた廊下とは比べ物にならない。空想のスズメは、その衝撃で夜の街へと飛びたってしまった。


「……あんた……なにしてんの……?」


 肩に肩を接着。力づくで私とお近づきになろうとしているマチは、ぐりぐりとその一点を擦りつづける。いつもはこんなに濃く、こいつの柔軟剤や香水を嗅ぐこともない。不愉快だとは思わないが、ただ少し、鼻に意識が向いてしまうのも事実。


「先生、苦しいんじゃないの? なんだかずっと、残り多いって顔してるよ」


 顔が近い。マチの口から出た息が、私の頬に当たる。わずか口臭を感じたけれど、それは悪臭と分類されるようなものではない。もっと、水に落ちた絵の具のように鮮やかだ。紅い舌がこちらをのぞく。


「ぼくならさ、満足させられると思うよ? 自信あるんだ、顔とか、身体とか」


 ゼロなのに、まだ近づく。私は見ているだけ。蛇に睨まれた蛙。


「キスもね、上手だっていろんな人に褒められるんだよ?」


 一ヶ月前と同じ、湘南江の島、手には紙コップ。


「……ね? いいでしょ?」


 あの男、黒い服装、白い肌。

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