第五話 水底に沈んだ街から
花瓶で笑っている
鍵を回し、玄関を開くたび、期待に裏切られている。
カバンの重さに辟易としたって、明日にはまた元気な先生にならなければ。それが心の底から嫌だとは思わないけれど、そうしなければならない未来にうんざりしてしまうのもしかたない。目をつむっていても歩いていけそうな我が家は、やってみろとばかりの暗闇を展開。ボロボロになったコンバースを脱ぎ、着替えや水筒を抜いたカバンは床へ。氷の塊がごとく冷たくなった床に足音ひとつ。女のそれは軽々しく、どうしようもなく頼りない。笑える。四七キロな肉体で軋んだ板に尋ねてみたいのは、だれか先に帰ってきてはいないのだろうか、ということ。北極や南極にふさわしい温度となっている廊下は、コールドスリープのなか喋ることを叶えない。
あの日もそうだった。私が最後のコマまで授業をしていれば、たいてい恋人が先に帰宅をしているはずだったのに。まっすぐ帰宅することがそうないのも知っていたから、今日はちょっと長引いているんだろうなとだけ考えて、ふたり分の食事を作りはじめた。当たり前のように明日も同じような日になるのだろう。そんな未来にうんざりできていた過去に羨ましさすら覚えてしまう。結局その夜、彼が帰ってくることはなかった。次の朝、病院からの電話で叩き起こされて、最悪な気分になった。朝はすこぶる苦手だったから。安眠を邪魔されることに我慢ならなかった。だからベッドに眠っているのだという彼と電話を替わってもらうようお願いした。文句を言ってやるつもりだった。もちろんそれは実現しなかったわけだが、無理なお願いをしたつもりもない。あのライダーなバカが死んだおかげで、とんだ恥をかいてしまったじゃないか。頭がパックリとクレバスのように割れてしまったらしいけど、あいつの頭蓋に脳味噌なんて収まってないだろうし問題はなかったはず。自動ダジャレ生成機は入っていただろうか。そういう冗談、言っていたのにね。朝月夜に慌てた女は簡単な格好で、コートに身をつっこんでは靴をまとった。貴重品、鍵を握っては飛びだし。ポストに緊急用の合鍵があることも確認した。彼が急に帰ってきても大丈夫。これを使って家に入ってくれればいい。
今日郵便受けを確認しても、いまだに鍵はそのままだった。だから分かっていた。今日も彼は帰ってきていない。電気のついたリビングは、私が家を出る前となにひとつ変わることなく。『トイ・ストーリー』を真似て不在時になんらかの会議なり寸劇が家具のあいだで繰りひろげられていればいい。が、意思のない椅子やテーブルに要求してもしょうがない。死んだ人間が生き返らないよう、生きていないものが動くわけもない。手の甲で押したスイッチで部屋に明かりが戻ってくると、労働を対価とした電球が命を輝かせる。ウレタンのマスクを外し、家に帰ったらまずするべきことをしなくては。袖をまくってシンクへと。なにに気を遣っているんだか、感染症をうつす家族もいないくせに。
「……やってらんね……」
ハンドルを捻り、ため息が落ちるたび、手水に遮られている。泡立てた石鹸が汚れを落としていくはずなのに、孤独感は拭いさってくれないのだからバカバカしい。このさい本当に孤独であるかどうかは関係がない。ただ私は、心臓の少し下に溜まっていくドロドロと生温かいぬめりを、消し飛ばしてほしいだけ。世界を席巻する手洗いという行為は、しょせん身体の末端しか奇麗にできない。好きな人間もいない私は、そんな自分になることにすら興味を失くした。自分の気持ちを昂らせるためのお洒落だってするべきだ。他人に見せるだけがファッション、美容じゃない。
黙っててね。
そうだ、ご飯を食べたらムギちゃんママから頂いた花をノートに描こう。美しいカトレアが花瓶で笑っている。家の中にある、唯一の生き物。そのうち枯れるはずだけど、その前に私の手でスケッチするべきなのだ。閉じこめておこう。死んだとしても逃げられないくらい、おおげさに。
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