黒
どうにもこの時間はその流れを克明に感じとってしまうきらいがある。ものの五分で世界の色はがらりと変わる、目まぐるしい光と闇の戦争。交互に勝ち負けを繰り返す彼らは、飽きることなく明日も戦う。
「あんた、あのときどうするつもりだったの?」
「なにまた質問?」
「検問で、入れないかもってなった瞬間、教師になにか言うつもりだったでしょ」
ルールに厳格だったジャージ姿の教師。あそこで考えを聞いてくれなかったら、いまごろどうなっていたことか。なんらかの形で強行突破はできたろうが、アメノヒさんの協力をあおげたかは微妙なところだ。危機的状況に、こいつが打とうと思った一手の正体、知っておきたいと思ってしまう。
「それね、ぼくは入れなくてもいいから、先生だけでも入れてもらおうと思ったんだ」
「はあ? そりゃまたどうして?」
地平線の先、日和に恵まれたおかげで今日は富士の高嶺がのぞいている。
「だって、先生がいたほうが事件解決の可能性が上がると思ったんだ」
なんの根拠なんだか。確信を持ったマチが言う。
「先生は、真実を見抜くことができるからね。今朝の子と、同じようなものさ」
コウモリは両手を広げる。自信に満ちて。
「……ずいぶんな偏見ね」
宵闇は足早に天空を覆っていく。抱きしめんばかりの星屑たちは、人類へ涙ひとつも零さない。光を失っていく波たちは、置いていかないでと手を伸ばす。赤子が目の前の指に伸ばす手。明日が来ることを信じられないのは、この風景を明日見ることがないだろうから。時を刻むものの正体は分からないが、波長が短い青色が取りのこされた天の上、ふただび陽は昇るのだろう。
夕暮れは時間の価値が違う。
湯気の匂いはすれどいまだ花の匂いはせず。花より肉まんともいうし構わないだろう。小田急線の最終到達地点のひとつ、片瀬江ノ島駅近くのコンビニを前に、私の鼻はうずいてしまった。帰るまでなにも食べないというのも持たなそうだしと、恥を忍んでマチに進言。やつもお手洗いに行きたいとのことで、コンビニ内の男女共用便所へと姿を消した。
「先生、そんなのばっかり食べてるからビンボーなんだよ」
USB。あんなやつは放っておこう。今年もやってきたホットスナックの繁殖期を祝いつつ、こんもり熱を持った白いふかふかを注文。もちっとした触感を店の前で楽しんで、肉汁の阿波踊りにあわあわした。
あ~うっめえ、そのうちおでんも買ったろう。季節物というと違うかもしれないが、日々の楽しみなんてそんなもんでよくないか?
しかし、すっかり暗がりへと傾いた街のなか、年増が買い食いを楽しむというのも見せられたもんじゃない。しかしながらあの文化祭が飲食物の提供をしてくれないのが問題なのだ。まさか電車内で食べるわけにもいかないのだし、これくらいは許しておくれよ。だれに許可をとっているんだか、もちろん私だ、私を見ている自分自身だ。
「うっまい」
なにに言いわけをしていても、美味しい食べ物は美味しいのだ。不変の真理、時制は現在。秋に葉が落ちたり、バラが咲いたりするのと同じ。肉まんはどうがんばってもまずくない。白い蒸気が口からほろろ、黒い空へと消えていく。
お父さんが吐いた紫煙。お爺ちゃんが燃えた形見の雲。私が絵に描いていたのは、ヤギだっけ、それとも羊?
「エジソンがはじめてレコード盤に録音した曲は、『メリーさんの羊』だったそうだな」
消えていくのは蒸気ばかりではない。私の横、ソーシャルディスタンス圏内ぎりぎり外に、タバコを吸っている男がいた。そうだ、なんて語尾。死んだそうだねって返したくなった。喉は震えないが。
「なんだ知らないのか? だとしたら今日の会話は、ずいぶんな奇跡だ。人類初のレコードと、人類最期のレコードを跨いだお前たちは、まさに時を行き来する旅人だったじゃないか」
黒いジャケット、黒いスラックス。髪も、こちらを流す目も、オールブラックコーデの細身、背も高い。
「まあ、お前が想像以上に無鉄砲ということも知れた。少し見直したぞ」
一方的に話す彼は、さも私の知り合いかのように接する。
「だがな、お前たちがふたりでいられるのも、そう長いことないかもしれい」
次の一口を頬張ろうとしていた顎が、驚きによって開かれていく。街灯の下を歩いていく人々も、黒い服の男に注意なんて払わない。ただコンビニの前に立っているだけ。どこにでもある眺め。既視感。私は閉じこめられてしまったかのように動けないのに。
「マチは近々、人を殺そうとしている。できればもう、関わらないほうがいい。だれに手をかけようとしているのか、俺にも分からないからな」
またひとつ息を吐いた男。思いだすのはあの手紙。私の返事を待つこともなく、ご用事もない彼はなににも気にとめることなく歩きだす。
「じゃあなイズミ、警告はしたぞ」
声を出して問いつめるべきだった。あなたはマチのなんなのと。蛇に睨まれた蛙のようになっていなければそれもできただろうに、悴んだ手足では追うことひとつもできはしない。素知らぬ顔で男が路肩に停めてあった車に乗るのを見送ると、ややぬるくなったホットスナックはいくぶん食べやすくなってくれた。ありがたいのか、どうなのか。
「先生?」
唖然としている私のもとへマチ。トイレの代償に缶コーヒーを買ったらしい。熱いのだろう、お手玉のようにその円柱を放っている。温度を我慢してプルタブをこじ開けるまでの沈黙。
「どうしたのさ?」
マチが飲む。真っ黒な液体だ。パーカーと同じ黒、男と同じ黒。
いつもと変わらない大きな瞳と、人を馬鹿にしたような口角。ひょうひょうとした、すこぶる自分勝手な放蕩人間。私の教え子、隣人。こいつのこと、どれだけ知っているんだろうか。
『となりの部屋に住む人間とこれ以上関わるな』
夜の街と同じ黒、マチはそれを美味しいと表現した。
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