きっと、恋だって似たような感情だ。
マチはふたりをしばらくの間眺め、タイミングを見計らって彼女たちを引き離した。私はチカさんを抱きとめながら講堂の外へ出て、夕陽が濃くなる時間までずっと、泣きじゃくる彼女といっしょにいた。マチがメリさんをどうしたのかは知らない。ただ、あいつが私たちのもとへやってくるときには、体育館に吊るされていたクラス旗の写真を撮ってきていたから、たいしたケアはしていないらしかった。
「たいしたことはできなかったね」
画面を見つめながら言うマチ。くたびれたパーカー。
「……そんなの最初から分かっていたでしょう」
冷えてきた。壁に体重を預ける。
「……そんなこと……ないです……」
しゃくり上げている肩にそっと手を置いた。言うことはないが。
彼女たちの会話は必要なものだったのだろうか。悲しみに打ちひしがれているチカさんを見ていると、そう思いたくない自分もいた。けれど同時に、こうして涙を流すということがなによりも大切なのだということが、直感ながらに分かっている自分もいる。
「幼馴染だったんです。昔はずっといっしょに遊んでたんです」
幼いころからの馴染み、幼馴染。もう一生聞きたくない言葉だったのにな。虫酸が走るよ。蛇蝎のごとく、嫌いな言葉だ。昔から知っているからなんだっていうんだ。人間はしょせん、ひとりなんだ。
言わないよ。こんな弱いこと、言えるわけないじゃん。
私、彼が死んだときに泣いたっけな。
涙と鼻水がついた服をチカさんがごめんなさいと拭ってくれる。
彼女が見せた女が女を殺そうとするような感情で、私はあの喪失に立ち向かったりしただろうか。
江ノ島が見える海岸線は、半分が宵闇に呑み込まれてしまっている。江ノ電は高校から帰る人々や、それ以外の住民たちでいっぱいになっていた。急ぐ必要もない私たちはせっかくだからと海岸線まで。夏は当の昔に過ぎ去って、冬のライトアップシーズンだってやってこないエアポケットな季節の江ノ島周辺を歩いた。
「なに探してんのよ。流れ星?」
「銀河鉄道」
「なるほど」
スニーカーが砂に塗れてしまうことも気にしない。どうせ洗えばいいのだ。どれだけ汚れたって、汚されたって。
「一個質問してもいい?」
両手に靴を持ち、水に足を突っ込んでは回転するように進むマチ。
「なによ」
「ヤギの呪い、どうやって解けたのさ? ちょっと気になってたんだよね」
あんたは元気でいいなと、まったくもって羨んでない羨みを放ち、空が燃えている西の空をただ眺める。今日の私たちが助けたヤギさんは、あるいは羊は、メジャーリーグのカブスと同じように、呪いを剥ぐことができただろうか。長らく苦しむことなく、栄光を掴む瞬間が来るのだろうか。
「当時のカブスには、ひとりの日本人選手がいたの」
「へー、その人が大活躍をしたとか?」
不正解だ。もっと勉強したまえ。
「めっちゃベンチウォーマーだったよ」
「なんでえ、ダメじゃん」
「私たちと同じように、観てただけ。そんでもって、尋常じゃないくらいに応援をして、空気をよくしていったの」
黙るマチ。暁天、ウミネコが鳴く。コウモリと違って、ずいぶんと白い。影はどこかに落ちているが、私たちには見えない場所だ。手だってもちろん、届かない。
「はあ……?」
「その選手は、私たちにも関係しているんだけどね?」
なに言ってんだと目を細める。そんな視線を向けられる筋合いはないぞ。
「川崎選手っていうのよ。ヤギの呪いを解いたのは」
小田急線のずっとむこう。私たちが住む街と、その名前は一致する。単なる偶然だって分かっていても、なにか縁を感じてしまう。そうは思わないだろうか? 江ノ島の灯台は頷きもしないが、光でなにか合図を飛ばず。地球を一秒間に何周もするような速度。
風景を見つめているだけで、自分の世界が洗われていくように思えるのは、そこに自分が存在しないからだ。なにかを見ている間は自分を見ないで済む。奇麗なものを見ている間は汚いものを見ないで済むとも、おそらくは言い換えられるのだろう。
きっと、恋だって似たような感情だ。風景を見るようなものだ。
影法師を伸ばす私は、足裏に砂を感じる。ぐらついている足元をなんとか平行に保とうとして、無理で、傾いた勢いでまた歩む。
「そっちにもひとつ聞いておきたいんだけど、あんたはどうしてメリさん? だっけ、あの子を連れてきたのよ」
波が押し寄せて、返って、水が砂に染みて、気泡が弾けるみたい、全部音。音楽と呼ぶのかは人によるのだろうが、間違いなく聞こえるのだから愛おしい。マチが踏む砂と音、真白な足が黒い地面。
「困るということは、次の新しい世界を発見する扉である」
海を見ているマチが、影だけの黒い人になる。表情も、話の脈絡も、見えない。
「エジソンがどうしたの」
流石にこいつとも長い。言いたいことが多少は分かるようになってはいるのだが。
「チカっちは賢い子だけど、あのまま犯人に怒りをぶつけないとよくないと思ったんだ。勘だけど。だからさ、困るかもしれないけど、ちゃんとブチギレてもらわないといけなかったんだ」
泣いてばっかじゃしょうがない。メリーさんじゃないんだから。か。感情を吐き出せないことのおそろしさは、私よりもマチのほうが知っているのかもしれない。人の言えないことを聞いてきた数なんて、比べるまでもなく多いのだろうから。
「でもいいものを見たよ。人はどうしても伝えたいことがあっても叶わないとき、バカみたいに腕を振り回すんだ。暴力は、人間が最後にとれるメッセージ手段なのかもしれない」
江ノ島へと伸びていく橋が見える。あれが弁天橋っていうのだろうか。いまから渡るつもりもないし、マチが行きたがっても断るだろう。観光客はこんなときでも一定数は確保されていて、団子状になった人々は整然とペースを守っている。人間の社会性というものを感じる景色だ。
「バカ言ってんじゃないの。暴力なんてその器にふさわしくない」
ようやくこちらを向いたマチ。じゃあなにがあるのさと、窺うような首の角度。
「ゴールデンレコードのほうがいいでしょう」
はて? 考え込むように手を口元へ。その恰好は私に協力してくれた、アメノヒさんを思わせた。あの暴力沙汰に、彼女を巻き込まなくて本当によかった。
「……先生、『最後』と『最期』をかけてるの?」
「大正解。どうせあれが再生されるのなんて、人類が滅んだ後だしな」
「……分かりにく」
「なんだと? え? うまくないか? ちょっとだけ! ゴールデンレコードもあんた好きだろ?」
逃げるように駆け出したマチ。追う私。沈む陽。終わる日。
「先生、やっぱりぼくは、先生とセックスしたいな」
答えないし、応えない。
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