花の名前なんて子供っぽい


「イズミさんはマチとはじめて会ったとき、あの子をとても美しいとは思いませんでしたか?」


「正直にいうと、まったく思わなかったんだよね」


 すでに済まされていた会計にふたりして呆れた。まあ予約されていた段階で分かってはいたけれど。登戸駅まで彼女を送る道中。ノンアルコールなふたりは浮かれているということもなく、ただマチという人間についての話だったり、あるいは関係のない話だったりをくり広げた。


「マチと出会った瞬間、私は昔観たことのあった映画、もうタイトルも忘れましたけど、原節子さんのそれを思いだしたんです」


 永遠の処女。彼女が出ていた映画なんて星の数よりはちょっと少ないくらいなもので、それだけで題名を特定することはむずかしそうだった。けれど、記憶の彼方にあるはずの彼女について、この子はありありと、目の前に女優が立っているかのような恍惚を浮かべて話している。


「モノクロ映画のように白と黒しかない世界のなかで、ただ輪郭と顔のパーツだけで美しさを際立たせている……。本物の美人とはああいう人をいうんですよ。私なんかとは全然違う」


「そんなに好いてもらえて、マチはとっても幸せなのね」


 首を振る彼女。そのボブカットも十二分に美しいと思うし、気品のある歩きかたや見るものを寄せつけないクールなラインのコート姿だって、私は羨ましいと思うけどな。白い息を吐いたハタチオンナは、困ったように笑った。その姿は多摩川にはもったいないくらい、どんな空より美しかった。


「マチがイズミさんのことを好きになった理由、分かったような気がしますよ」


「へ?」


 ペデストリアンデッキへとのぼる階段。小田急線と南武線が交錯する空間で、彼女は体重のない天使として頂上へ。月明かりと同じく、私をそっと見下ろした。


「あなたはマチのことを、ただの人だと思っているんですね」


 もちろん。


「もちろん」


 それ以外のなんだというのだろう。点字ブロックを華麗に踏みつけ、彼女はうしろ歩きに微笑みを保つ。


「それがすごいんですよ。マチを相手にして、あの人を人間だと思えるのが」


 私には無理です。なんて自己嫌悪。女子大生は泣きそうだ。とても愉快そうなのに。


「世界から祝福されているようにしか、思えないんです」


 こっちからだってそう感じられなくもないよ。階段をようやく上り終えた私は、口には出さないまでも、同感だと息を吐いた。あいつが消える前夜、月下のマチはたしかに人からやや抜けでた存在に見えた。でも私は、それが錯覚だと知っている。


「マチだって、完璧じゃないよ」


 あいつはまだ、世界史のすべてを覚えたわけじゃない。勉強しないといけないことがたくさんあるんだ。それだけは、きっと彼女も知らないのだろう。


「そう言いきれる人が、マチの人生ではずっと少なかったんです」


 話を聞いてきたかのような口ぶり。美しく、周囲からそのように扱われ、それゆえに正当な評価をよくも悪くも下されない。自分を評価する人間のすべてがおもしろくないと、マチはその全部を一度投げだした。納得できるような、けれどもあいつがそんなことを今でも気にしているのだろうかという疑念も湧く。


「マチはそんなイズミさんを自分のものにして、愛したいんじゃないでしょうか」


 欲しいものはとにかく得るべし。たしかにマチらしいということなのだろう。情熱的でくたびれてしまうが。


「愛したっていうのですか、ね」


 アイコンタクト。


「しがみついてもがくことを、ですか?」


 笑う女子大生。モザイクロールな話題にとりあえずは場を和ませて、頭をよぎった小さな疑問をぶつけてみる


「DECO*27の新譜がもうすぐ出るんだよね? あなたも買うの?」


「もう予約とりましたよ。特典で迷いましたけど」


 水道代か電気代の話でもしているかのような口ぶりだ。それを払っていない人間もそうはいまいといった感じ。実際には水道代くらいなら二、三ヶ月滞納したところでビクともしないのだが。


「そっか。ちなみにゲオの特典ってなんだか覚えてる? 他人の買い物に付き合う機会があったんだけど、結局どんなものがくっついてくるのか知らなくて……」


「ゲオですか? ちょっと待ってくださいね……」


 ギーク特有の即時スマホで検索ムーブへと入った彼女。やっぱりボカロ好きなんて、いくら着飾ったところでオタクをかますものらしい。若さあふれる指つやで、検索されるはDECO*27。


「……なんかごめんね」


「いいんです、気になったので」


 沈黙に耐えかねてひと言添えたが、彼女はちゃんと疑問を共有してくれているよう。問題を正解へと導きたいという欲望を、うちの生徒にも分けてくれないだろうか。


「ち、ちなみに今さらなんだけどさ、お名前ってなんていうの」


 穴埋めの言葉。


「見つかりましたけど……」


 それを流していく発見報告。あ、えっとごめんねなんて、ふとした疑問から強いてしまった労働の対価にも満たないコミュニケーション。


「いやそれが……」


 彼女が掲げる縦長の画面。特設サイトというやつだろうか、色とりどりの円盤やクリアファイルなんかが浮かぶ四角形。アニメイト、Amazon、とらのあな、なんとなく覚えがないでもない固有名詞たちのなかから、ゲオを探す。探す。


「……ない……」


「そうなんですよ。ないんです」


 そんなはずはないだろう。たしかにトモエちゃんと私は、片道三キロのゲオを目指して歩いたはずじゃないか。彼女は間違いなく稲田堤店に行きたいんだと言っていたじゃないか。間違えていたのか、特典の店舗を? なかなかに考えにくい話だが……そうじゃないとして、なぜそんな嘘をつくのかも不明だ。


「……大丈夫ですか?」


 私の焦りようを見かねてか、心配の色がこぼされる。今ここで話していても解決するような問題でもなかったから、勘違いしちゃったかなと頭を掻いた。どうもこれで終わるのも会話としてふさわしくないような気もしたから、苦し紛れではあるがもう一度名前を聞く。それで、お名前はなんていうの?


「彼方サクラといいます……花の名前なんて子供っぽいですよね」


 本当に今さらですね。温顔で前髪を直すサクラさん。春はまだ遠いけれど、立派に咲いた綺羅飾り。


「ううん、全然」


 私は覚えがある。ムギセンノウという花からとられた名で、だれよりも美しい音楽を歌い上げる女の子を。花が女なんて前時代的だけれど、だからといってそれが悪しきことであるとは言えないだろう。サクラさんが咲くように笑うのも、秘するのも、女だからというわけではないのだから。





 小田急線改札、サクラさんと私たちは分かれる。連絡先も交換しないまま、おそらくはもう二度と会うこともないのだろう。生きていればそんなことはごまんとあるし、それこそ湘南の高校に通うアメノヒさんやメリさんなんかとも、もうすれ違うことすらないのかもしれない。見なくても考えなくてもいい悲しみなのに、わざわざ口に含んでしまうのは悪い癖だ。


「あまり有益な情報を持っていなくてすみません。ただ、マチの話ができたのは楽しかったです。ありがとうございました」


 深々とお辞儀をする彼女。おしゃれは我慢とはよくいったもので、冷気で赤くなった膝がどうにも痛々しい。でも私にはない忍耐だ。正確にいえば昔には持っていたものだし、案外乗り切れたりすることも知っているが。またやる気になるかといわれれば、たぶんお断り申し上げるのだろうな。


「手がかりが見つかることを祈っています。それじゃあ……」


 振り返り、改札にスマートフォンをタッチしたサクラさん。私は告げようかどうしようかを悩み、彼女を巻きこまないほうがいいのだろうなと理性を発揮した。


「こちらこそありがとう。元気でね」


 新宿に帰っていくのだというサクラさんは、エスカレーターに乗ってなお、こちらを振り向くことはなかった。駅からそう遠くないマンションまで歩く彼女と同じように、郊外を歩くさまもまたひとりだった。この世界に寂しくない人なんかいない。彼女の元にまたマチが訪れるのかどうか。


 それを担っているかもしれないというのに、呑気にしている私もひとり。


「……さて……」


 サクラさんには告げなかったが、独りごちるぶんにはいけなくもないだろう。ひさしぶりに話してしまったから、妙に聞きたくなった楽曲たちがサブスクに入っているか眺めつつ、我が家への道をちょっと急ぐ。


「収穫はあったね」

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