やってらんね
「すみません、その、家を出ていたことは分かっていたんですけど、旦那が連れだしているものだとばかり……本当になんといってお詫びしたらいいか……」
血相を変えて玄関を開けたのは、ムギちゃんと目元がよく似たお母さんだった。鼻はそうでもなかったけれど。事情を話し、とりあえずケガはないということ、熱中症ではないと思うけれど、本人の眠気がどういうものなのかが気になるから注意して欲しいということ、この住所を知った方法などを伝えた。抱きかかえられ続け、ついに重しから愛される娘へとクラスチェンジを果たした五歳児は、話声につられて夢の世界からこちら側へと戻ってくる。
「……ただいま……?」
「ただいまじゃなくて……ひとりでどこ行ってたの! ひとりで遠くに行っちゃいけないって、お母さんいつも言ってるよね?」
起き抜け一発の叱りつけに多少驚いたものの、お母さんも感情の整理ができていないのだろうなと納得する場面でもあった。
「……お母さん……? お母さんっ、おか~さ~ん!」
自分に向けられた言葉なんかガン無視で、ムギちゃんは必死に母親へと手を伸ばし縋りつくように泣いた。ああ、やっぱり私といたときは強がっていたのだ。というより、この瞬間のために我慢をしていたということだろうか。汗と涙を押しつけられた若い母は表情筋をあっちこっちに動かし、怒りから呆れ、安堵を経由して呆れに戻り、そこから誤差みたいな範囲ではあるけれど、確かに慈愛を表情へ託し、微笑んだ。
「あ~もう、お姉ちゃんにちゃんとお礼言いなさい」
真赤なお顔のムギちゃんは、無理やりお母さんの胸元から引きはがされては鼻水を垂らした。私は彼女の記憶から消えるにしても、残っている間くらいは手触りのよい思い出になってみせようと心から笑った。
「ムギちゃんよかったね。もう大丈夫だよ」
お手本のようにしゃくりあげ、絞りだすようにして彼女は返す。
「イズミお姉ちゃん、ありがとうございました」
ペコリと頭を下げた女の子。刺繍がチラリ、愛の証。
「本当にありがとうございました」
続けてお母さんまでお辞儀を。ふだんは親御さんから直接頭を下げられる機会なんてないから、流石にこれには辟易してしまった。お母さんそんな、特段たいしたことはしてませんので……。謙遜を撒いても会話に発展がなさそうだったから、後ろ頭を掻いてはこちらも会釈。
「その、どういたしまして、です」
感謝なんてされるものじゃない。身体が痒くてしかたがなくなるから。私なんてただ歩いていただけだ。いっしょにいた人間が恋人から、会ったばかりの小さな女の子に変わっただけなのだ。
蚊が入ってくるといけないから、この扉を閉め、さっさと退散しないと。頭のなかはそんな警告文書ばかりが散乱している。自分が消えてしまいそうな気がしていた。
土砂降りに打たれて数十秒。アパートまで目と鼻の距離だったのに。日ごろの行いが悪いにしても、こんなタイミングでなくてもいいじゃないか。レインリリーの束を雨の直撃から守りながら、世界史の教科書が濡れないでいてくれるといいなと願って走る。洋服の心配をするべきだろうに、よほど気合の入っていない装いで職場に行っているのだなと、ある種自分に落胆を覚えた。
「あ~やってらんね」
吐いて捨てたのは玄関をくぐって湯船の蛇口を全開にした後だ。花瓶に入りきるだろうかと不安だった幸せは、案外ボリュームがかさむものでもなかった。久しぶりの仕事だと張り切っている陶器に水を注いでは、自分も相当な水浸しだなと笑った。濡れた髪の毛が重い、やっぱり切っておくべきだったんだ。後悔したってどうしようもない、雨は降ったし彼は死んだ。こんなことを思いながら、これっぽっちも切る気なんてないことも、私は自覚している。だから嫌いだ、感傷にばかり浸る自分が。
「へっくしゅっ」
浸かるべきはお湯なのだ。人工呼吸器に繋いだ花々を尻目に、下がった体温を上げに行こう。花と違って冷たいままでは生きていけないのだ。
「温もりが、いるのだ」
恋人がいなくなってから、明らかにひとり言が増えた。
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