とんだ恥
「ああ、電車ってこれね」
生田緑地。職場との行き来で毎日のように通っている森の中、蒸気機関車とその客席車が広場に鎮座している。どうりで小田急線沿いを歩いても彼女の家が見当たらないはずだ。駅からここは、登りなら三〇分はかかってしまうのだから。昼は日光とその反射光で溢れているこの場所も、夜になればプラネタリウムがある科学館も閉じ、いつの時代のものかも知らない古民家たちは家主をなくしたショックで沈黙している。古いには違いないが、蛙の大合唱で俳人もげんなりさせる池を横切った。
「一日二回もここを登るとは……」
岡本太郎美術館とも何度すれ違ったことだろうか。塹壕の中、悪夢に出る怪物のような形をしている『母の塔』もこんばんは。夜にお会いするのはお互いいい気持ちがしませんね。周りに飾られている子供たちの数が減ったり増えたりしていないことを祈るばかりです。生田のヒラリーステップを乗り越えるなかで、再びの眠気に落ち切ったムギちゃんは規則的な呼吸を続けている。本来なら変わるはずもないのに、眠った人間というものはその前と比べて倍くらいは重くなっているような気がする。なんなら『母の塔』の子供が倍になってくれてもこの際気がつかない振りをするから、ムギちゃんの重さを半分にしてくれないものだろうか。
「この先……」
汗を拭うこともできないまま、無心で足を前に動かし続ける。なにがライ麦畑のキャッチャーだ、これだけ頑張っても生田緑地のクライマーが関の山じゃないか。山だけに。
「……似てきたな……」
あの人はいわゆる親父ギャグを連発する人だった。重なり合った音を思いついたら、声に出さないではいられないという病気だった。付き合う前や直後くらいなら笑っていられたし、タイミングによってはしばらくお腹を押さえていなければならないこともあった。けれど、一年もしないうちにほとんどのギャグはハイハイと流すだけになってしまった。洗い物をしているときに放たれたりすれば、苛立ちで水の勢いが増したりもしたものだ。それでも塾での授業中、生徒の話を聞いている間に思いついたダジャレを私が言ってしまうこともあって、生活をともにすることの魔力を思い知ったものだ。彼が病気だとすれば、私もまた同じ病気にかかっていくのも必然だったのかもしれない。人間にはいまだ、解明できていない感染症があるのだ。マスクや透明なビニールでも防ぐことのできないウイルス。
「着いた……」
スマートフォンが指し示した場所、なにかのお店でもあるのだろうか。シャッターが下りていてよく分からないけれど、山の上に咲いたタワーマンションの隣に陣取られた一軒家のインターフォンを押す。この建物の、おそらく二階が生活の場所であるのだろう。私には私の病気があるように、背中に乗ったムギちゃんにも彼女の世界のウイルスがある。私たちの前にあるドアのむこうにそれは充満していることだろう。留守でないことを心から願う、ウイルスだけに。
「はい?」
「あの……ムギちゃんという女の子を……」
怪訝そうな女性の声になんと応えればいいだろう。保護した、キャッチした、捕まえた、助けた。どれもこれもピンとこない。でも二の句を続けないことにはどうしようもない。頭の片隅にノイズみたく浮かんだ言葉を、自動機械のようにそのまま詠唱した。
「……引き受けたんですけど……」
あのパーカーなバカが余計なことを言うから、とんだ恥をかいてしまった。
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