お家に帰るよ
呟いたムギちゃん。自分がどれだけ危険な境界線に立っていたのかは理解していないようだけれど、私が必死になって今、彼女の手を握っていることの意図は汲んでいる。こちらを見つめる目は心配の色に染まっていた。冗談じゃないぞ、なんでそんな目で見られなくてはいけないのだ。もちろん、私が焦った顔をしているからなのだけれど。認めたくもないから、かぶりを振って腰をかがめる。
「ほら、お姉ちゃんが拾ってあげるから」
横から手を出しては帽子だけを掬う。そこから数歩マンホールから遠ざかってから彼女に返そう。黙ってついてきてくれるムギちゃん。汗がにじんだ額に前髪が張りついている。子供っぽくていい顔じゃないか。ちょっと待ってね、心臓が脈打って止まらないんだ。
「急に掴んでごめんね、でもあの穴に落ちたら危なかったから。ほら、帽子。お花が奇麗だね本当、よくできているね。お母さん器用なんだね羨ましいな」
思いつくことを立て板に水とただバラまいた。私のなかに入ってこないでくれという、牽制でしかないまくしたて。大人げないからこんな大人にならないでね、子供っぽいから言いたくなかった、それが分かっている私は、まだ大人。
「ううん、平気」
そっか……。顔を見られたくなくて目を伏せる。彼女はじっとこちらの様子を窺っている。真黒いふたつの穴が私を貫く。蓋をしたくても、どこの役所に頼めばいいのか。他人を操る権利は警察にはあるのかもしれないが、おまわりさんは出張中でこの街にはいない。
「これ、返すね」
何回か呼吸を数えてから彼女へ帽子を差し出した。その内側が上を向いていて、汗が滲みいくらか縁が変色している。暑さもひと段落してくれたとして、汗をかかないわけでもないな。もう一度、彼女を家に帰すのだと自分を奮い立たせなければ。
「……あれ?」
「なに?」
まじまじと見つめる。滲んでいるのは幼女の体液ばかりではない、明らかな線で書かれた文字たちが、しっかりとひとつの意味を伝えてきているではないか。こちらを見上げるムギちゃんも異変を察知したらしい。
「ムギちゃん、お母さんにこの帽子を失くしちゃダメって言われていたんだよね?」
「うん、知らない人に渡しちゃダメって」
「なるほど……」
あーバカバカしい、答えなんて目の前にあったんじゃないか。地図上で検索をかけるためにスマートフォンを顔パスで通り抜ける。知っている人だと喜んでくれればいいのだが、この板切れはいつだって不愛想に、相変わらずな画面を提供するばかり。資本主義の頂点から指し示された座標へ向かう、帽子の内側に書き込まれていた住所へだ。
「さ、ムギちゃん行こうか」
「うん、探すの?」
「いいえ、探すのは終わり」
手を握る。離さないようにしっかりと。小さな人生を覆いつくすようだ。今にきっと、私のそれでは一握に収まらなくなるから、堪能しておくのも悪くない。
「お家に帰るよ」
天は我々を見放さなかった。郊外での遭難は終わりを告げて、ここからはただの家路が流れるばかり。新世界より流れる音楽はドヴォルザークか、彼女がドアを開け放ったあとにでも考えようか。コンバースは最後の踏ん張り、目元で検索結果を見定める。住所からまさかとは思っていたが、そのまさか。肩が落ちた。そのままマンホールの下まで落ちていきそうな勢いで。
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