そういえば、死んだらしい


 冷蔵庫にあったサラダチキンとトマトを齧る。行儀が悪いことこの上ないが、合間にシャーペンをノートに走らせては目の前の花弁を写した。ベランダの屋根が大きかから、窓を開けては外の空気を吸い込んだ。ずいぶん雨足も弱まっていたし。すぐそこにお墓があるからなのか、家賃も低く空気も冷たい。夏には便利だからと気に入っていたのだけれど、恋人は週に一回お清めの塩を撒くことを怠らなかった。その習慣が途絶えてから半年は経つのに、そこいらの幽霊はおろか、とうの彼すら化けては出ない。私にはどうやら、その手のものは見えないらしい。


「才能ないな~」


 ボヤキながら線を引く。お皿の上にあったトマトもすべて平らげてしまったから、いくつか人間的な生活を演じたら、幕引きとばかりに布団を被るのだ。それまではちょっと手元の動きを楽しんだっていいじゃないか。卓上は想像のそれなりに下を潜って、よれて迷い、くだらなくなった線を浮かべる。見ている花は、描いている花と比べると何百倍も美しい。むしろ現実の美しさを確かめるために絵を描いているのかもしれない。決して目に映る世界に敵わないのだと、自らの不能をマゾヒスティックに実感する愚かな行為だ。


「花がお好きなんですね……か……」


 笑いかけてくれたムギちゃんのお母さん。あの子はお母さんの花好きを教えてくれたけれど、まさかそのお母さんが駅前とはまた別の花屋さんを経営しているとは思わなかった。お家に花がたくさんあるんだと言ってはいたけれど、売るほどあるとは聞いていなかったな。白いレインリリーは越してきたばかりのハムスターのように、変わってしまった風景を受け入れがたく首を垂れている。そう嫌がらなくてもいいじゃないか。あなたたちが差されているそれは、私の恋人が買ってきてくれたものなんだから。


「花なんて別に好きじゃないのにね……」


 私が好きなのは、好きだったのは。


「ぼくはその絵、好きだけどね」


「ヴェッ!」


 全身の毛が逆立って、肩に力が入ってはそのままシャーペンを折りそうになった。音もなくやってくるのはいつものことだけれど、これ以上になく悲劇のヒロインに染まっている瞬間を見られるとは、間が悪いにもほどがある。


「こんばんは」


 振り返れば開け放たれた窓の外。ベランダに立った幽霊のような人間が、私をじっと見つめていた。青白い肌は広がった墓を背景にするとよく似合っていて、やつの居場所は元来死の世界にあったんじゃないかと思えもした。真黒なパーカーと細身の足がおりなすシルエットは鳥のようにも見えて、どこから飛んできたんだかと気だるいため息を吐いてしまう。


「なんだよ、お隣さんなんだし別に邪魔しに来たっていいだろう?」


「百歩譲って玄関からお邪魔するべきだと思うけどね、でなんのご用?」


「いや~特には」


「は?」


「本気で嫌がんないでよ、ライ麦畑で子供をちゃんと捕まえたキャッチャーを、せっかく労おうとしているんだから」


「……別に頼んだ覚えはないわよ……さ、帰った帰った……」


 立ち上がり、ベランダに通じる窓を閉めようとする。網戸の外側に突っ立っているフクロウのようなパーカーに付き合ってられるか。えーだのなんだの言っているが知ったこっちゃない。子供と喋るのなんてお金を貰わないとやっていられないのだ。今日世界史をサボったこいつには、門前払いの態度こそふさわしい。


「そういえば、死んだらしいね」


 いざ戸に手をかけると、死人みたいな色白はさも嬉しそうに言った。


「誰が? あんたのカレシ?」


「カレシなんていないよ。作ったこともない。たしかに今日、セックスしただけの男は殺されたけどさ、そっちよりも重要なことがあるじゃない」


 下降気流で叩き下ろされた雲の上からの水分は、地面と強かに衝突をして悲鳴を上げる。用水路を通って彼らはその先へと流れていく。そのシークエンスの音楽に乗せて、朗らかにマチは唄う。目線は私というよりも、六畳間の中央にちょこんと鎮座した机とその上の花へ注がれていた。いずれ多摩川へと流れ込んでいく、この雨水たちのように。


「閉まってたでしょう? 駅前のお花屋さん」


 ムギちゃんの言葉が頭に響く。「あの白いお花、なんていうの?」答えは明白だ、それは間違いなく菊の花だ。ただ、それらは咲いていたのではなく、打ち上げられた死体のように並べられていたのだろうけれど。


「三日くらい前に見つかったんだって」


 どこで、どんな風に、なんて親切な説明はしてくれない。どうせ分かっているんでしょって挑発するような顔だ。他人と受験を舐め腐ったような顔なものだ。額に手を当て、ぼやくしかない。首を振る、余計な感情や考えを払うために。


「……やれやれだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る