世間知らず
ベランダ。私たちはたびたびふたりで並んでは、夜更けまで話をする。たいていの内容はマチと寝た男や女の話が展開されるわけだが、今日はそういうわけにはいかなかった。溶けていく雨のようにべたついた空気と急激に下がっていく温度を纏い、眼下の骨を塞いだ石の数々を見下ろした。
「原因は特に分かっていないらしいよ。地方新聞で確認しただけだから、本当のところはどうだか知らないけれど、あのお店の店主さんはなにに苦しんでいたわけでもなかったんだって。少なくとも周りや社会からすれば、心身ともに健康そのもの。死から最も遠い中年男性だったそうだよ」
せがまれたので淹れてやった紅茶を満足気にすすり、駅前の花屋に襲った悲劇について語るマチ。すべてを知っているようで、実際のところは端から端まで伝聞表現でしかないのだが。変なところで事情通なのは相変わらず。その勢いでもうちょっと歴史を覚えてくれないと、このままじゃ受験に間に合うかどうか。こう言っても聞きはしないだろうけれど。
「だから自殺か他殺かも分からない……と」
恋人とふたりで寄ったあの花屋。社会的交流で必要になる花束を基本に据え、ほかにも家庭菜園に適した季節に応じた苗やら種やらを取り揃えていた、ちゃんとした店だった。私がたどたどしくあの花はあるか、今の季節だとどんな花があるのか、買うのかどうかも分からない客の質問に快く応じてくれた、深いしわと笑みが印象的だったおじさま。あのアルバイトの女の子も今はどうしていることだろうか。知るよしもなく今生の別れになるとは、もっと頻繁に通っておくんだった。
「監視カメラとかの解析が進めば分かりそうなものだけれど、公開情報として取り上げられるかは知らないや。でも、ほかの花屋を見つけたみたいだし、別にいいんじゃない?」
「その価値観は、ある意味では花の魅力自体を否定しているけれどね」
彼が言った「枯れてしまうと思うと、花を飾るのって悲しくてなかなかできないんだ」という圧倒的に凡庸な躊躇いを払しょくするように、私はノートに花の絵を描き始めた。当初はダニング・クルーガー効果で絵のことを理解できたつもりでいたわけだが、輪郭線という概念がフィクションでしかなく、物体には常に面しか存在しないのだと気がついたところで、上達速度の原則からは逃れられない。変わらない線の慣れなさにため息を吐き、自分が手元ではなく肘を起点にペンを動かすタイプなのだと知り大きなノートを買ったりもした。多少楽にはなったけれど、それで画力が上がるなら世話がない。ハードウェアを変えるだけで人間もよりよくなるのだとすれば、産業革命以後人間という種は何段階も優れた生命になっているはずなのだ。世界史さえ勉強すれば分かる話。
「花の魅力って?」
「個別の差異がありすぎて、工場製品になれないところよ」
「最近の花なんてずいぶん機械的に出荷されていると思うけど?」
「秋に獲れるサンマもそうでないサンマも、出荷のされかた自体はいっしょでしょ」
「そういえばもうすぐ秋になるし、いっしょにサンマ食べるのもいいね、先生」
年中同じような格好のこいつから季節感のある話が出てくると、どうにも違和感がぬぐえない。屋根を伝い零れていく雨水を受けたところで、なんにも気にしないで歩いていきそうなのに。やっぱり食だけには興味があるのだろうか。
「匂うし嫌よ、だいたいグリルもないし」
「だからじゃん、困っている先生見るの楽しいよ」
悪気もなさそうに言う。食といっても人の不幸という蜜を舐めたいだけなマチ。
「もっと人のことに気遣いなさいな」
わざとらしくため息を吐く私。肩まですかしてやろうかね、考える間もなくそうしているんだけどね。
「昨日いっしょに寝た人が今日殺されたって、なんとも思っていないぼくにそれを言ったところでね」
コウモリ野郎だね相変わらず。どうしてこんなやつとセックスしたいと思うものなんだろうか。顔か、それとも単純にヤレそうだからか。男だけが寄りつくならまだしも、マタタビを嗅いでしまった猫のように、女までもマチに尻尾を振るのだから謎は深まるばかりだ。人の性欲というボタンを正確に押す技術を、おそらくはこいつは理解している。塾長のスイッチでも押してくれれば、私へのお誘いも減ってくれてありがたいのだが……。
「誰かに恋をしている人は、ぼくのことを抱きたいと思ったりしないよ」
「ずいぶんと達観した物言いね」
「まさか、セックスしたところで人生が変わったわけでもないんだ、ぼくはそのへんの世間知らずな処女となんにも変わりゃしないよ」
可愛い子ぶって両手に持ったカップを傾けている。音もなくリラクゼーション効果を流し込む唇は、話によると三桁くらいの種類は唾液を味わってきたそうだ。酒すら飲まない私に、その味は分かるわけもなかった。
「……ま、じゃあそういうことなら、あのやっかいな塾長とは寝てくれないのね」
「もちろん。それに、先生の彼氏もぼくとは寝てくれなかったしね」
流石にその話題はぎょっとするからやめて欲しいが……。まあ、いまさらどんな話を聞かされたところであとの祭りだ。どんとこい。
「誘いはしたんだ?」
「だっておもしろいじゃん、先生のことを好きになるって物好きな部類だと思うし」
「失礼ね……」
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