私は髪を切りたいだけ

 肘を突く。あの日、なんでもない話をしていた夕暮れ。ここにスズメがとまっていた。彼らはこの夏をどう過ごしたのだろうか、恋人や冷蔵庫よりも長く生きていることを祈ろう。会ったところで分からないのだから、あの鳥たちともう二度とまみえることはない。立ち別れの連続だ。人生なんて他人を見送るだけの暇つぶし。


「それに、彼はそんなにおもしろいやつじゃなかったよ」


「えーそうかな」


「そう」


 異論を唱えたげなマチを見ないで、ただ雨に塗れた墓石を眼下に。


「だって親父ギャグしか言わないような男だったもん」


 あれでどう美容師として働いていたのか、トークスキルが低スギルってね。


「話せば話すほどつまらなくなる恋人だったよ」


 なるほどね。という返しからしばらくの静寂。地面を叩く雨音は休むことを知らないのに、不思議と静かだと思えてしまう。ベランダや墓石叩く雨の音、芭蕉だって似たような句を詠んだに違いない。世界史をやらなくたって分かる。これは親父ギャグじゃないから、彼に影響されたわけじゃない。絶対そうだ。


「あの人が死んだって聞いて、チャンスだって思ったんだ、先生とセックスできるって」


 自分のことを言われても、胸は少しも速まらない。通常通りのBPMで人生という曲を奏でる。マチが私のことを好きだなんて、そんなの今に知ったことじゃないんだから。こんな仕事をしていれば、生徒から恋愛感情を向けられることなんて珍しいことでもないし。実際何人か心当たりがあるくらいだ。まあ、ここまで奇特なやつはそういないが。


「でもさ、やっぱり先生はぼくとは寝てくれないんだ」


 マチはまっすぐ私を見ている。こちらは頬杖ついたまま、それに向き合わない。横目でチラッと表情を窺っただけ。悔しいかな、あの子の無垢に近いものを感じてしまった。


「さあ、なんでだろうね」


 私にはない純粋だった。


「……先生はなにがしたくて生きてるの?」


「別に……」


 堂々めぐりになってきたような気もするし、そろそろお開きにするべきじゃないだろうか。夜なんだから人間は寝て、代わりにハムスターが車を回す時間だ。残念ながら私の飼っていたジャンガリアンのように、老衰で死ぬには早すぎる。青い実であり赤い火、腐って消えるまであと何年かかるだろうか。死ぬ理由は見つからないだけ生きる意味なんてない。それでも、ひとりで眠る前に明日にむけて思うことがあるとするなら、こんなことしか言えやしない。


「……私は髪を切りたいだけ」


 マチに零したこの一言を夜はしとやかに包み込む。川崎市へ久しぶりに降り注いだ水は、重力によってしかるべき場所へと流れていく。人にも同じように行くべき場所があるとするならば、私たちもまた流されている途中なのだろうか。途方もなく長く、その道のりを想えるのも、私の生きてきた時間が短いからにほかならない。マチが死と性に関わっていられるのも、やつが生きている証拠としてしか機能しない。結局のところなにをしたって私は私のままで、せいぜいがちっぽけな塾で日本史だけではなく世界史も教えられるようになるくらいしか、能力なんて付きはしない。絵だってうまくならないし。


「あの人が持ってたよく切れるハサミ、まだ家にあるんじゃないの?」


 花をどれだけうまく描いても、死んだ人間は生き返ったりしない。


「持っていかれちゃったわよ」


 夏にはずいぶんと色味が増えたこの墓地も、季節が廻れば灰色に包まれた石ばかりが立ち並ぶ。紙のように磔にされた肉は絵に起こされるのに、生命の断片も許さない花崗岩は復活を信じられることもないようだ。ましてや水に浸され骨壺まで浸水してそうなこの様相、彼が眠る遠くの墓も同じようになってはいないだろうか。雨は光を乱舞させ、ただでさえ髪で邪魔されている視界をかき乱しては笑っている。頼むからどこかに行ってくれ。哀願しては俯いた。目を瞑っても流れ込む、愛した人がいない世界。郊外で壊されていく花屋やコンビニは、そのまま私の思い出だったのに。手にはなにもなく、すべて零れ落ちてしまった。人が寂しさを感じるとき、掴むものなどありはしない。


 縋りつくような湿気、光り輝く雨筋、隣人が吐いた息、薄く痩せた胸。


 それは見ていられない風景で、水底に沈んでいるような街だった。











 参考


『ひろい世界へ』 作詞 高木あきこ

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