第三話 小人たちのUSBメモリ

演劇部のチカさん

「あの……先生、この間のやつなんですけど……」


 眼鏡の奥から覗いた瞳には、私の顔色を窺うような意図が組み込まれているようだった。ご機嫌とりをしようというよりかは、今は話しかけても差し支えのないタイミングであるか、確認する視線だった。私の職場は個別塾であり、ここはその教室ど真ん中。パーテーションとビニールで区切られた、感染対策ばっちりと謳っている白い空間。


「模試の結果?」


「ううん、まだ返ってきてないです。そっちじゃなく、以前読んでいただいた脚本が部内の選考にかけられたんです」


「ああ、そっちの」


 まあ、分かっていた。いちおうここは「進学」というあおりがつかないまでも塾であり、勉学に励む場所であるというアピールをしたわけだ。もっとも、どこぞの年中パーカーを着ているやつに比べたら、チカさんはしっかりと弁えている生徒ではある。だからこそ驚いたものだ。例年より遙かに短くなった夏休みの最中、A4用紙の束をクリアファイルに入れ、持ってきてくれたことに。


「多数決で残ったのが例の鹿島と私のだったんですけど、最終的には私の脚本でいくことが決定しました」


「おお! やったじゃん、おめでとう」


 これは朗報だ。もちろん立場上は部活もほどほどにして、受験に備えてねと言わなければならない私。毎年ひとりかふたりは受けもつことになる大学受験生。うちは誰が見ようにも補習塾レベル。しかし今年も、ここで受験するのだと豪語する高校生がいる。チカさんはそのひとりだ。


「へへへー、結構嬉しいんもんですね。先生に頂いたアドバイスのおかげです」


 日本史のテキストをとにかく解きまくり、私に進行の確認と内容の解説を仰ぐ普段の彼女とは違い、純粋な喜びを一面に浮かべている様子は、見ているこちらまで幸せにするのだった。パーテンションを挟んだむこう側では、宿題をやってきていないことに対する小言や、あるいは単語テストの成績が振るわない原因について追及する講師たちの声が聞こえてくる。私たちはなんとのんきなものだろう。


 ただ、この手の話を聞いてあげないことには、生徒たちからの信頼を得られないことも確かだ。彼らはときおり、心から誰かに聞いてもらいと願い、勉強とは関係のない話をすることがある。講師はその意のあるところと、単なる怠惰としての雑談とを識別する能力というものをつけなくてはならない。私は彼女の部活動の話は、たいていの場合前者にあたると考えているわけだ。


「ううん、別に私は誤字脱字のチェックくらいしかしていないよ。チカさんが考えたお話が、部内で一番おもしろかったって事実。そこを誇って欲しいな」


 当たり障りのないことを言っているなと自分でも思う。というよりか、コミュニケーションにおいて相手を尊重したり肯定したりする語彙というものは、罵倒するそれよりもずっと少ないことに気がつかされる。


「えへへ~」


 ちゃんと専門店で売られているみたらし団子のような弾力で笑んだ彼女は、再びA4用紙の束を私に預け、完成稿ですとつけ加えた。それをありがたく受け取って、さて授業に入ろうかと咳払いをした瞬間、ビニールシートの中にいるチカさんは肘をこちらに向けていた。そのポーズになんの意味があるのかと見つめていると、彼女は分からないのですかと説明を始めた。立場が逆だろうに。


「欧米とかで流行っているらしい挨拶ですよ、握手だと事後的に粘膜に触ってしまうからよくないと。なので肘を付き合わせることで代わりとしているっていう……学校でよくやっているので」


「お、おう。なるほど」


 シート越しにこちらもおずおずと肘を突き出しごっつんこ。彼女のスレンダーな骨格と、不格好でバランスの悪い骸骨を携えた私が交わっては離れていく。平日夕方午後六時。今日の範囲は中世室町。日本史で受験を考えているのなら、確実にここを押さえておかなければならない用語だらけのこの時代。まず確認するは建武の新政期と幕府以後の要職名についてだ。


「チカさんにとっても関係のある場所について、鎌倉公方と関東管領の説明ってできる?」


 今日は最終授業までのシフトだから、日本史のあとはコウモリのような姿をしたやつの世界史まで見なくてはならない。日本語で話したあとすぐに、英語でしか話してはいけないと指令が下ったかのような感覚に囚われているが、ともかくは国内事情に関しての記憶にアクセスを。こんな塾に、そう何人も大学受験レベルの歴史科目がみられるという講師がいるわけもなく、私の脳味噌は彼女たちのため休むことなく回転し続けるのであった。


 おまけに九月の中旬の私には、仕事終わりに多摩川の河川敷に行かなくてはならないという業務まで追加されていた。今日も生田の山を下っては何十分も歩いて、ヒグラシというセミがとまるのだという木を観察する。外で食べるスープ春雨も、売っている味をフルコンプしてしまった。適当に総菜で合いそうなものでも突っ込んでみようかな。


 まあ、それはまた別の話。ともかくこれは、その九月中旬から一〇月中旬までの一ヶ月の話。演劇部のチカさんに降りかかった困難を、ただ観ることしかできなかった物語だ。

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