タイムトラベル


 チカさんの通塾歴は非常に長い。私が講師になってからすぐ、中学生のころからずっと通い続けてくれている子だ。初頭効果というものだろうか、来たばかりのころの人見知りっぷりが思い出されることが多いけれど、いまはここにある程度の愛着を持ってくれているのだろう。高校生になってからはお悩み相談を聞くということも増えた。友達を作るのが得意というタイプの子ではないから、大なり小なりの人間関係に関するぼやきみたいなものが多かった。心を開いてくれている証拠であるのならばと、授業に支障が出ない範囲内で対応してきたつもりだ。その甲斐あってか、高校生最後の年には彼女が考えた演劇の脚本まで見せてくれたのだから、おそらく私は結構な確率で好かれているのだろう。こっちはそんなもの書いたこともないから、書き手の心情なんてものは丸ごと分からない。が、チカさんの芸術に対する歩みは、なにもしないままぼんやりと生きてきた私からすると、太陽よりも眩しく深海よりも神秘的に思えてくるのだ。


 しみじみとティーンエイジャー盛りの物語を読んでいた九月。暑さは思ったよりも早々に失せ初め、河川敷でA4用紙を握っていても心配がないくらい、穏やかな風の中で息をしていた。もっぱら談笑相手になってくれたツバ欠け帽の中学生がいなくなってからも、時を司った妖精が起こすタイムトラベルに巻き込まれた高校生たちと教師の旅を噛みしめていた。もう何度も読んだにも関わらず、少しでも微調整が入ったバージョンを渡されれば、すぐに冒頭から読み始めてしまうのだ。それくらい、おもしろいということ。


『時間が遡るなんて、そんなのありえるもんか!』


 私のすぐ後ろを通り過ぎていく夫婦。両方ともに三〇代くらいだろうか。歩く男と女は、エスカレーターの手すりを掴むかのような自然さで、互いの手と手を重ね合わせている。秋服のおかげで夏よりも膨れたシルエットが、燃える夕焼けを反射する雲の方へ消えていく。私も昔はあんな風に歩けていただろうかと首をかしげながら、数ヶ月もの年月を巻き戻されてしまった主人公たちの困惑に、うまく感情移入できない自分を見ないようにした。


 目元に垂れる前髪、邪魔でしょうがなく、ひたすら横に流すしかない。


 私の前髪の長さは、あのときの恋人に髪を切ってもらったときと同じくらいのところにまで到達している。引っ張れば、先端はすでに鼻の先に到達してしまっていた。意識しだすとどうにかなってしまいそうだから、最初っからこうなのだと唱えるようにしていた。事実として、あの部屋に越してきたときに住んでいた人間は私だけだったのだ。だから彼が死に、いなくなったとしても、最初からなにも変わっていないと思えばいいだけなのだ。


『一度行われたことは、二度と戻らないのが常識なんでしょ? そうだよね?』


 時間遡行をした人間が陥りそうな会話がよく書けているなと感心した。まるでタイムトラベルの経験者のごとく。この、人々が自分の感情を整理するために言葉を吐きだし続けてしまうという現象は、生活のなかでだってみられるかもしれない。話すということはときとして、話すこと自体に目的がない場合もある。この作品の冒頭は、そんなリアリティで飾られている。くたばったきり、なんにも喋らない男とは違うのだ。


「美しくなりたいって願う人の力になれたら、それに越したことはないと思ったんだ」


 なんであんな、誰にでも言えるような信念に引っかかってしまったんだか。私ならそんなこと絶対に言わないだろう。自分のなかにある思いや願望は、他人に言えなかったり言わなかったりするものであるべきなのだ。根拠はないが、多弁よりはそのほうがいい。決まっている。


『騒がないで、とにかく落ち着いて考えましょう。私たちがこの時間から帰るための方法を』


 多摩川にはその日も街灯の光ばかりが反射して、過ぎ去っていく小田急線は橋の下にいる私に目もくれない。通行人は次第にこの風景から消えていき、代わりに通りからは賑やかな笑い声が飛んできたりもする。ともに過ごす相手がいるというのはどんな気持ちになるのだろう。他人について考えるのはいつもひとりの時間だけ、誰かといると、心にもないことばかりが口を突く。行く当てがないその日暮らしの民になったよう。ただひたすらこの場所で、時間が経つのを待っている。恋人がいない部屋に帰るまでの、暇つぶしを続けている。

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