パンク


 九月下旬。塾からの帰り道、塾長不在の教室を閉めた直後。この日はマチがサボタージュを決行したため、手持ち無沙汰な時間が多かった。とはいっても、普段の場合一対一で授業を進めるということはない。まあ、マチ以外の生徒に注力できたという点においてはよかったのだろう。特にチカさんなんかは同じく大学受験を控えているのだし、解説に時間をかけられたのはありがたかった。気分がどことなく逆立っていて、ぶつくさ文句を言いながらの締め作業をこなしたわけだが、これも残った講師が私ひとりだけだったから。


「さっむいな……」


 しみじみと、というよりかは吐き捨てるような言い方。教育上よろしくないなと自嘲する。まあ教えるといっても単なる塾講師。私がやっていることなんて誰でもできることで、かといって誰かが手を差し伸べてくれることでもない。しかしこういう役割があるからこそ、この世に存在していられる。誰もやりたがらないことを、人は仕事と呼ぶのだ。家事全般、炊事、洗濯、掃除、ゴミ捨て、郵便物の確認だって同じだ。


 最近は日課になっていたセミのご来迎待機も取りやめになり、まっすぐな帰り道ばかりを歩いていた。ただ、この日は塾長からの言葉や思い通りに塾に来ないマチなんかにほのかな苛立ちを感じていたから、駅の方によって好きな食べ物でも買っていこうと決めていた。とはいっても、しょせんはファミレスでテイクアウトするくらいなのだろうが。この街に美味しいお店がないこともないが、残念ながらどこも夜の一〇時には閉まっているところがほとんど。それでも構わないと、はしたなく大股開いて山を下りる。いつもとは違う景色だが、数年前まで毎日通っていた道なのだ心配いらない。急勾配に差し掛かり、周辺の明かりの灯らない区画へと突入する。足の前側にかかる体重に懐かしさを感じながら、音楽を背景に前へ前へ。生田緑地からほど近いだけはあって、鬱蒼とした森が片側に広がっている。鬼が出ても蛇が出てもおかしくないような様相。しかしながら私には、風が木々を揺らしたところで、恐れるような柔さはないのだ。可愛げがなくて申し訳ない。


「先生……?」


「わっ! びっくりした」


 人が出てくるとは聞いていないぞ。と文句を口で濁しながらイヤホンを外す。私が気がついていないだけで、車がゆうにすれ違えるだけの幅を持った道路の反対側に、彼女は歩いていたようだ。私が追い越そうとするタイミングでむこうはこちらに気がついたらしく、慌てた駆け足ののち、ブレーキを踏むように大きな音をたてていた。


「先生もこっちが帰り道なんですか?」


 車輪が細く鳴きながら、私と並走するかのごとく横についた。赤色の自転車、チカさんが塾の駐輪場に駐めていたのを何度か見たことがある。路面が滑り止めのためデコボコしているからなのか、一定のリズムで鈍くホイールが軋む音がした。


「ん? ああ、今日は駅のほうで買い物しなくちゃいけなくて……たまたまね」


「お仕事終わりにお疲れ様です」


「いやいや。そっちこそ、塾出てからずいぶん経つのに、どうしてまだこんなところに?」


 眼鏡の奥の瞳が若干の雲合い。言い訳を探すように視線が宙を泳ぎ、緊急着陸と地面に滑らせた。


「自転車がパンクしちゃって……」


「パンク? そりゃ大変だ」


「そうなんです、盛大に釘かなんか踏んじゃったみたいで……」


 おいたわしやと見れば、やっちゃいましたねとしょげたご様子の自転車くん。悲しげなリズムは、空気が抜けたことによるホイールと地面の接触から生まれる音らしい。


「釘って……またうちの大学が悪さしたのかもね……」


「へ? いや全然、それに最近は人の立ちよりもほぼないみたいですし」


 視線を向けた建物たちには、見たところほとんどの部屋に明かりがついていなかった。もちろんこのくらいの時間になっていれば以前から似たような風景になっていたのだが、それでもそこいらのベンチや喫煙所なんかに有象無象な大学生がたむろしていたのも事実だ。遅くまで働いている教員や警備員なんかがつけた照明だけが点在する大学風景は、インクが切れたままで転がっているボールペンのような虚無感。私が四年間を過ごした学び舎の群れは、近隣住民にとって騒音の源だった去年までとは違う。門前雀羅を張る帰り道の一部となってしまっている。


「先生はどうしてこの大学に通おうと思ったんですか?」


 何気ない質問。帰り道は迷うこともないから、余計なことを考えるにはもってこいの時間。大人も子供も関係がない。家路はいつだって、足以外の身体がせわしなく動いてしまうものなのだ。


「受かった大学のなかで一番偏差値が高かったからだよ。単にそれだけ」


「そういうものなんですか?」


「私の場合は行きたい学科が定まっていたし、たいていの大学にあるような分野でもあったから。大学名にこだわりはなかったかもね」


「やっぱりこだわりなんてないほうがいいんですかね。大学には私も極端にこだわっているわけでもないですが……」


 教育学部に興味を持っている彼女は、受験に関係があるようでその実まったく別のことを考えているらしかった。塾で見せてくれない、遠くを見ている横顔になにか声をかけてあげなくてはならないと気持ちだけが渦巻いて、結局のところこんなありふれたことしか言えない自分を恥じた。

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