クラス旗

「……学校、最近どうなの?」


「えっと……文化祭実行委員もやっているんですけど……」


 チカさんはとうとうと近況について話し始める。誰かに吐き出したかったのだろうけれど、然るべき場所や相手を見つけられないままでいたから、ああやって一息に喋ったに違いない。学生にとっては人生そのものとも思える、世間一般からすれば取るに足らない悩みたち。


「学校全体でクラス旗を作って、それを繋ぎ合わせて一つの絵にするっていう企画があるんですけど、進み具合がどのクラスも全然で……その報告すらあげないところもある始末で、困っちゃいますよね」


 脚本執筆の裏でそんなことにも手を出していたとは知らなかったから、その報告には素直に驚いた。職業柄といって、すべてをそれに繋げて考えているわけでもないが、受験もあるのだし少しは背負う仕事の量を減らすことはできなかったのだろうか。誰かがやらなければならなかったからといって、その誰かにあなたがなることはなかったじゃないか。あまりにも正論の色が濃いものだから、彼女に対して振るいたくはなかったが。


「じゃあ部活のほうで、鹿島……くんはちゃんとまじめにやっているの?」


 薪をくべる。油を注いでは暴発しかねないけれど、燃やしたい感情を発散させる機会を与えることも、人との会話では必要なことなのだ。


「やってますよ? でも私の脚本に対しては未だに文句たらたらって感じで、練習中にもさんざん嫌味を言ってきます。ここのセリフって不自然だから直さね? なんて茶飯事ですよ。おかげでまた少し台本弄らないといけないかもです。稽古に弊害がない範囲で、ですけど」


「不自然な目からは自然なものがおかしく見えるものだからね」


「ですかねぇ」


 笑っているようで、これっぽっちもおもしろくなさそうな声だ。私の言葉が彼女を救うこともないだろう。生徒の学校で起きた出来事に、塾講師である私ができることなんてあるはずがない。あったとしても、コンプライアンスを考慮すれば、むしろしてはいけないことなのだ。


「大変だと思うけど、無理せずに。なにか困ったことがあったら誰かを頼るようにしてね」


 まあそういう戯言を置いておく。なりふり構わずに彼女に干渉したとしても、私が彼女のためにできることなんて皆無だから。演劇部に乗り込んだって見学以外の能はないだろうし、クラス旗を無理やり高校生たちに描かせようものなら即刻通報、早急連行。待ったなしだ。愚痴を聞くということで彼女の問題解決にどれだけ貢献できるかなんて、たかが知れている。けれども、私にできることなんてそんなものなのだ。粛々とこなすとしよう。最近私は、自分が他人へできることなんてまったくもって存在しないのだと思い知ったばかりだ。話を聞いて、聞きだして、なにか助けられるんじゃないかと思ってしまった自分が、ヒグラシ一匹を見つけることもできない無能者なのだと分かってしまったのだ。


「ありがとうございます。私こっちなので……さようなら」


「うん、さようなら。気をつけてね」


 お辞儀を一つ、山の中腹で道を折れていくチカさんを見ていると、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の主人公、セルマのような儚さを覚えてしまった。住宅街が広がる道は、本来なら大勢の人が生活しているはずの場所。なのに彼女は壊れた自転車を抱え、たったひとりで歩き続けていく。街灯も決して不十分ということはなく、彼女の足元は明るく照らされていた。目に映るものはすべて輝いているのに、その背中はどこか丸まっていて、街灯にも気がついていないよう。私の思い違いと片付けるべきだろうか。反芻する感情にかぶりを振って、答えもないまま払い落としてしまいたかった。苛立ちは独りになるとぶり返してくる。理不尽は誰に降りかかろうと理不尽で、私にはそれが許せなかった。晩飯を食ったらとっととこのノンワイヤーブラを外し、シャワーを浴び、むくんだ足を放棄してはさっさと眠って忘れたいほどに。


 やけっぱちな足取りでアパートまでたどり着き、郵便受けを確認する。手を突っ込んでまさぐるだけの、痴漢のようなオペレーション。どうせチラシしか入っていないだろうに。蔑する指はひとかけら、厚い紙を捕まえた。


 一枚のハガキ、差出人もこの部屋の住所も書かれていない。メッセージひとつ、そこにある。



『隣の部屋に住む人間とこれ以上関わるな』


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る