リップグロスの油が浮いている


「……引っ越し……ですか……」


 まだ決まったわけじゃないんだけどね。そうエクスキューズをつけた若妻は、縁に桃色の線があしらわれたコーヒーカップを持って、ミルクと砂糖が入った茶色を流しこんだ。私はといえば、珍しく早起きをしてしまった都合、妙に覚めてしまった目に違和感を宿しながら、小さな喫茶店でブラックコーヒーをこぼしかけている。


「私の父親が横浜に暮らしているんだけど、ちょっと体調も悪くなってきてね。ムギも幼稚園を卒業する来年の春とかがちょうどいいかもねって話になっているの」


 私としても他人事ではないかもしれない。まだ両親は健在で、かつ持病らしきものもこれといってないわけだが、いつ大病に罹るともしれない年齢なのだ。そうなったとして、私にも似たような決断をしなければならないときが来るのかもしれない。あるいはしかるべき施設に入ってもらうか、そんな経済力が私にも彼らの貯蓄にもあるのか微妙なところだが。


「でもそうなると、お花屋さんは……」


 私の懸念はまずそれだということが、どうにも現金で嫌だった。ムギちゃんは新天地でうまくやっていけるだろうかとか、今いる友達と離ればなれになって悲しくならないだろうかとか、思うことがほかにもあるだろうに。


「閉めちゃうでしょうね~。せっかく夢らしきものが叶ったのに残念ではあるけど」


 落莫とした面持ちは、そこから転じにわかに一笑を浮かべる。取り繕ったというよりは、それでも自分は大丈夫なのだと安心させるようなそれ。


「私は十分楽しんだから。自分だけの花屋で、自分だけの世界を作れた。その経験だけで、子供に胸を張って、好きに生きていいんだって言えるくらいに」


 立派な人だと思った。こういう人に育てられるムギちゃんは、きっと恵まれている。本人が将来そう思えるのかは、私には知ることすらできないのだろうけれど。


 私はこの人がいつお花屋さんを志し、どんな経緯で叶えていったのか、乗り越えた試練の標高も山肌も分かってはいない。それについて軽々に聞いていいものかと思ってもいたが、こうしてお茶に呼んでくれるくらいには友好を持ちかけてくれているのだ。だとしたら、こちらからそういう話題を振るのもひとつの礼儀だろう。


「……それに……なんとなく思いだしちゃうし……」


 しかしその試みは、ムギちゃんママの暗い声色に負けて喉の奥に引っこんでしまう。むせ返りそうになりながら、しゃがれた声をともかくは返す。


「なにを……ですか……?」


 しばし髪の毛をくるくるといじってから、声を潜めるようにして彼女は言った。気にしすぎって自分でも思っているんだけど、と序詞を置きながら。


「ほら、何年か前に事件があったじゃない」


「事件?」


 そう言われてピンとくるほど、この街に事件は少なくない。


「ほら、登戸のところで、小学生が……」


「ああ」


 言われて思いだしたというには、あまりにも早く記憶のフォルダから探しだせた。それくらいには衝撃的な事件だ。


「どんどんムギがあれくらいの歳に近づいているなーって、そりゃ生きていれば当たり前のことなんだけど、この街の治安がよくないのは間違いがないし……いいきっかけなのかもなって思うのよ、こういうのも」


 彼女の親が住んでいる横浜がどれほどの治安なのかにもよるだろうが、ともかくはこの街の治安に不安があることは私だって同じだ。防犯ブザーはカバンの中に入れたり、夜が遅いときはひと気が多い道を選択したり、私ですら気をつけなくてはならないという意識が自動的に働く程度には、変な人間がちらほらといる。


「そうですね……安全はなににも代えられないですし」


 登戸通り魔事件。二〇一九年五月二八日に起き、バスを待っていた小学生たちとその保護者たちに、包丁を持った男が襲いかかり死傷させた。というのがその概要だ。


 スマートフォンでニュースを確認したとき、思わず恋人が外に出ないようにと口走ったのも記憶に新しい。実際にはすでにそのとき、犯人はみずからの首を切って死亡していたのだが。あのときのムギちゃんは三歳くらいだろうか。来年の春には幼稚園を卒園して小学校に通いはじめることを思えば、たしかに無視できるような事件でもないだろう。


「本当にね……気にしたってしょうがないのに、どうにもよぎっちゃって……」


「それはしかたないことですよ」


 子育て世代からすればどれほどの恐怖だっただろうか。犯人が死亡している以上、詳しい動機なんかも分からないままの悲劇は、言い表しようもない不快感を当事者ですらない人々にももたらした。明らかに弱きものを狙っていただろうに、その事実だけをただ置いていくだなんてひどい。本当に、ひどい話だ。


「いけないね、暗い話をしちゃった」


「いえいえ」


「それだけが理由ってわけじゃなくて、ムギもおじいちゃんが好きだし、もろもろ都合がいいっていうこともあるんだ。夫は嫌かもしれないけど……」


「ははは……まあそればっかりは……」


 私だって恋人の母親と暮らせと言われて喜ぶような人間じゃない。痛み入ります、ダンナさん。そして家庭内で浮かないことを祈ります。


「ムギもあのどこかしこでも歌う癖が治るといいんだけどね~」


「私はムギちゃんの歌、とても上手でいて、素敵だと思いますけどね」


「ずっと歌われちゃ堪んないのよ」


「でしょうね」


 声を出して笑う私たち。ムギちゃんと会うのがある意味での非日常であればこそ、日常にそぐわないほど美麗な歌声は価値を持つのだ。よく分かる。周囲の人間にとって、才能ある人なんてたいていはうんざりする対象なのだから。


 でもそれが、どうにも愛おしいポイントであったりするからどしがたい。


 同じように、彼女と未来出会う人々が愛してくれればいいと思う。変に浮かないで、いい意味で浮きでるような人生になってくれればいい。しかし変な縁もできたものだ。何度かしか会ったことのない、あの小さな生命に、私はなにを仮託しているというのだろう。


「今日はお話できて楽しかった。今度はランチでもどうです?」


 壁一面にコーヒーカップが飾られているお店を出るために、ママさんは先に立ち上がる。私もあとを追うべくカバンを握り、急ぎトレンチコートを羽織った。普段なら着ない、野暮ったくないアウターだ。


「こちらこそ。じゃあ次は、ムギちゃんもいっしょに」


 お店を出る前に口の中をリセットしたくて、最後にタップウォーターを口に含んだ。立ってからそんなことしちゃ行儀が悪いだろうに、バカか私は。


「ええ、喜ぶと思う」


 喜んだ声だった。テーブルに置いたコップには、リップグロスの油が浮いている。ひさしぶりにつけたものだから、この現象をすっかり忘却していた。


 なんとなく見られたくなくて、それをやや奥のほうへと押してしまう自分がいる。会計に遅れてはならないと、すぐに踵を返した。

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